2011年7月15日金曜日

第2回「知られない神(お父さん)に」 使徒17章16-31節

前回私たちは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます(マタイ7:7-8)」との聖書の言葉を聞きました。しかし同時に、「問題は、その大切なものが『何』であるのか、私たちには分からないと言うことです」とも聞きました。私たちは、知らないお方をどのようにして求めることができるのでしょうか?その問題について、パウロという初代教会の宣教者(使徒)は、アテネという町で次のように教えています。

その町にはたくさんの偶像がありました(16)。偶像とは、石や木でつくった神々のことです。アテネですから、ギリシャ神話に登場する神々の像がたくさんあったのでしょう。ある意味、日本と似た状況なのかもしれません。神道の神様は「八百万(やおよろず)の神」といわれますが、とにかく数が多いという意味です。今でも町の中には、たくさんの神々がまつられています。「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉もありますが、昔から日本人には、「何でもいいから熱心に拝み、それが心のよりどころになるんだったら良いじゃないか」という考えがあります。平成19年に文部科学省が行った「宗教統計(人口)調査」によると「神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる」そうです。今日の言葉を用いるなら、良く分からない「知られない神」を手当たり次第に拝んでいるということでしょうか。大らかなのは良いですが、少し厳しく言えば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということなのかもしれません。

しかしそれらを頭ごなしに否定してはいけません。ジャン・カルバンという宗教改革者は、すべての人の心の中には「宗教の種子が宿っている」と言いました(綱要Ⅰ3章)。またフランスの哲学者パスカルは「人の心には、神にしか埋めることのできない空洞がある」と言いました。そして聖書には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた(伝道者3:11)」ともあります。つまり、人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があり「それを求めるように造られている」のです。クリスチャンは、他宗教のすべてを否定するわけではありません。それらは、ある意味、人として当然の、宗教的行為なのです。私たちは「永遠」とか「神秘」を求めて、熱心に求道しておられる方々のことを、同じ信仰者として敬愛しています。それと同時に、愛すればこそ、その求めておられるものの正体が、いったい何(誰)であるかを、紹介したいと願っています。

人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があると言いましたが、パウロはそのことを「私たちは神の子孫(29)」であると言っています。しかしその記憶はかなり古く、多くの部分はかなりあいまいです。例えば幼い時にお父さんと別れた子供に「お父さんの顔を思い出して描いてみましょう」といっても、かなり独創的なものになってしまうでしょう。同じように、私たちも神の子孫(こども)でありながら、お父さん(神様)の記憶をたどり、生みだす「宗教や哲学や思想」などは、どことなく似ているようで、かなり独創的なものにもなってしまっているのです。逆のことも言えます。世界中には様々な思想や宗教があるのですが、普遍的なものになればなるほど、驚くほど似ている部分もあるのです。それは元をたどれば、同じお父さんにたどり着くからです。私たちはみな、この大きな「神の中に生き、動き、また存在しているのです(28)」。

人生のある時期に「わたしがパパだよ」と言って突然本当のお父さんが現れたらどうしますか?驚き、怪しく思いますか?「今さら自分のイメージは変えられない」「私はこれが自分のお父さんだと信じてきました」と、自分が信じてきたものを握りしめるでしょうか?でも「もし」目の前の方が、あなたの本当のお父さんだったら、どう思うでしょうか。天のお父さんは、あなたに出会いたいと願っておられます。もちろん無理やり信じることはできません。私たちには選択する自由と責任があります。だからこそ、まず心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?あふれる愛が、あなたを待っています。

どうしたら、このお父さんの声を聞くことができるのでしょう。それは次回以降のお話し。でも今日から始められることもあります。それは「まだ知られない方(お父さん)」に心から祈ってみることです。「お父さん、あなたは本当に私のお父さんですか?私を愛してくれているのですか。あなたを知りたいです…。」

これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
使徒の働き17章27節

第1回「何をしてほしいのか」 マルコ10章35-45節

今日から信仰入門テキストを始めます。まだクリスチャンでない人は、多少なりともクリスチャンが何を信じているのかに興味があってこのテキストを読んでいることでしょう。またクリスチャンは、折に触れて自分の信仰を確認し、自分の信仰が自己流になっていないか確認する必要があります。そうする中で、今度は自分が初めての人に語る準備をするのです。第一回のテーマは「何をしてほしいのか」です。これはイエスの言葉であり、あなたに対する問いでもあります。

「あなたは、わたしに何をしてほしいのか」。多少の言葉の違いはありますが、今日の聖書の箇所には、ほぼ同じイエスの質問が二回繰り返されています(36,51)。これは明らかに対比されていますし、それだけ重要な問いであるということです。もしイエスが目の前に立って、同じ質問をされたら、あなたはどのように答えますか?お金でしょうか、成功でしょうか?家族の幸せでしょうか?問題の解決でしょうか?私たちの人生は、①私たちが何を望んでいるのか、②そして誰に望んでいるのか、によって決定づけられてきます。ある人は「私たちの顔(表情)は、私たちが礼拝しているもの(強く望んでいるもの)に似てくる」といいました。私たちが望んでいるもの、そして頼りにしている存在は、それだけ私たちの人生に大きな影響力をもっているのです。

二人の弟子ヤコブとヨハネは「権力」を望みました。いや他の10人の弟子たちもそれを聞いて腹を立てたとありますから、同じように「権力」が欲しかったのでしょう。そんな彼らにイエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていないのです(38)」。正確に言えば、彼らは「自分が誰に何を求めるべきか」「その求めているものが自分の人生にどのような影響を及ぼすのか」まったく分かっていないということです。その点において、この後バルテマイという盲人が登場しますが、実は弟子たちの方こそ「(心の)盲目」であったといえるでしょう。しかしイエスはそんな彼らをしかるでもなく、やさしくこう諭されました。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい(43)」。私たちの願いとイエスの答えは、必ずしも同じというわけではありません。

あなたは何を求めてこの学びを始めましたか?私たちはこの地上で色々なものを欲しがります。その欲望はとどまるところを知らず、ひとつの願望をかなえたら、すぐにまた次の願望が生まれます。それ自体が悪いわけではありませんが、本当に大事なことを忘れていないでしょうか?それを忘れ、他のものをいくら追い求めても、心は満たされないでしょう。逆に本当に大切なものを手に入れたのなら、他のものはわずかでも、心は平安なのです。問題は、その大切なものが「何」であるのか、生まれながらの私たちには分からないということです。あなたがこれから学ぼうとしていることは、もしかしたら、あなたが「今すぐ」知りたいと思っていることとは違う(ズレている)かもしれません。しかしそれでも諦めないで、ここに「何か」があると信じ、求め続けるなら、そこに人生の新しい境地(宝)が広がっているのです。宝捜しの人生はもう始まっています。

バルテマイは二つのことを叫びました。「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい!(48)」「先生、目が見えるようになることです(51)」。私たちも、バルテマイのように叫ぶことができたら、何と幸いでしょうか。バルテマイは上着を脱ぎ捨てて立ち上がりましたが、私たちも、何重にも着こんでいる上着(「プライド」や「欲望」、「今まで探しても見つからなかったという失望」など)を脱ぎ捨てて、子供のように叫ぼうではありませんか。「イエス様!私にはあなたが誰なのか分かりません。自分が本当に何を求めるべきなのかもよく分かりません。私をあわれんでください。心の目が見えるようになって、本当に大切なものが『何』であるかを知ることができますように」。

あなたが求め始める時、内から外から「止めさせようとする力」も働くものです。でも、その力に負けてはいけません。バルテマイは、大勢からたしなめられましたが、ますます大声で「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい」と叫びました。あなたも諦めずに叫び、捜し、求め続けるなら、きっと答えが見つかります!

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
マタイ7章7-8節