前回私たちは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます(マタイ7:7-8)」との聖書の言葉を聞きました。しかし同時に、「問題は、その大切なものが『何』であるのか、私たちには分からないと言うことです」とも聞きました。私たちは、知らないお方をどのようにして求めることができるのでしょうか?その問題について、パウロという初代教会の宣教者(使徒)は、アテネという町で次のように教えています。
その町にはたくさんの偶像がありました(16)。偶像とは、石や木でつくった神々のことです。アテネですから、ギリシャ神話に登場する神々の像がたくさんあったのでしょう。ある意味、日本と似た状況なのかもしれません。神道の神様は「八百万(やおよろず)の神」といわれますが、とにかく数が多いという意味です。今でも町の中には、たくさんの神々がまつられています。「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉もありますが、昔から日本人には、「何でもいいから熱心に拝み、それが心のよりどころになるんだったら良いじゃないか」という考えがあります。平成19年に文部科学省が行った「宗教統計(人口)調査」によると「神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる」そうです。今日の言葉を用いるなら、良く分からない「知られない神」を手当たり次第に拝んでいるということでしょうか。大らかなのは良いですが、少し厳しく言えば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということなのかもしれません。
しかしそれらを頭ごなしに否定してはいけません。ジャン・カルバンという宗教改革者は、すべての人の心の中には「宗教の種子が宿っている」と言いました(綱要Ⅰ3章)。またフランスの哲学者パスカルは「人の心には、神にしか埋めることのできない空洞がある」と言いました。そして聖書には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた(伝道者3:11)」ともあります。つまり、人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があり「それを求めるように造られている」のです。クリスチャンは、他宗教のすべてを否定するわけではありません。それらは、ある意味、人として当然の、宗教的行為なのです。私たちは「永遠」とか「神秘」を求めて、熱心に求道しておられる方々のことを、同じ信仰者として敬愛しています。それと同時に、愛すればこそ、その求めておられるものの正体が、いったい何(誰)であるかを、紹介したいと願っています。
人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があると言いましたが、パウロはそのことを「私たちは神の子孫(29)」であると言っています。しかしその記憶はかなり古く、多くの部分はかなりあいまいです。例えば幼い時にお父さんと別れた子供に「お父さんの顔を思い出して描いてみましょう」といっても、かなり独創的なものになってしまうでしょう。同じように、私たちも神の子孫(こども)でありながら、お父さん(神様)の記憶をたどり、生みだす「宗教や哲学や思想」などは、どことなく似ているようで、かなり独創的なものにもなってしまっているのです。逆のことも言えます。世界中には様々な思想や宗教があるのですが、普遍的なものになればなるほど、驚くほど似ている部分もあるのです。それは元をたどれば、同じお父さんにたどり着くからです。私たちはみな、この大きな「神の中に生き、動き、また存在しているのです(28)」。
人生のある時期に「わたしがパパだよ」と言って突然本当のお父さんが現れたらどうしますか?驚き、怪しく思いますか?「今さら自分のイメージは変えられない」「私はこれが自分のお父さんだと信じてきました」と、自分が信じてきたものを握りしめるでしょうか?でも「もし」目の前の方が、あなたの本当のお父さんだったら、どう思うでしょうか。天のお父さんは、あなたに出会いたいと願っておられます。もちろん無理やり信じることはできません。私たちには選択する自由と責任があります。だからこそ、まず心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?あふれる愛が、あなたを待っています。
どうしたら、このお父さんの声を聞くことができるのでしょう。それは次回以降のお話し。でも今日から始められることもあります。それは「まだ知られない方(お父さん)」に心から祈ってみることです。「お父さん、あなたは本当に私のお父さんですか?私を愛してくれているのですか。あなたを知りたいです…。」
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
使徒の働き17章27節