2011年9月28日水曜日

第7回 「聖書の神様~三位一体~」 創世記1章、ヨハネ1章

前回は「創り主」について学びました。神様は、石や木で作ったもの(偶像)ではなくて、この宇宙と地にある全てのものを創られた方(創り主)でした。このお方は「ただお一人」なのです。「シェマー(ヘブル語の「聞きなさい」)」と呼ばれる、聖書の最も基本的な教えがあります。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである(申命記6:4)」。イエス様も同じように教えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である(マルコ12:29)』」。しかし、聖書には一見矛盾するような記述も…。

なんと、神様はご自分のことを「われわれ」と呼んでいます!創世記1章27節にはこうあります。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(正しく管理)するように』」。どういうことなのでしょうか?神様は「唯一」でありながら「複数」でもあるということでしょうか?マタイ28章19節にヒントがあります。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」。この「御名」にはギリシャ語の単数形が用いられています。「父なる神」「子(イエス・キリスト)」「聖霊」という三つの人格にして、ひとつの神の名(実体)を持っておられるのです。



分かりにくいですか?無理もありません、神様は私達の理解を超えて偉大なお方です。歴史上の神学者たちが、完璧な説明を求めてきましたが、いまだに成し遂げた人はいません。常識的には「1+1+1=3」なのに、神様においては「1+1+1=1」なのです。ある人は「水には『固体(氷)』『液体(水)』『気体(水蒸気)』があるけれども、どれも同じ『水』である。つまり神様も、時と場合によって『父』『子』『聖霊』と現れは色々だけれど、本質的には同じである」と説明します。しかし厳密にいえば、これも完全な説明ではありません。なぜなら神様は、三つの人格を有し、その三つの人格は、完全に自立し、混じり合うことはないけれど、完全に一つの神様であるからです。このような神様理解のことを「三位一体(さんみいったい)」と言います。

大切なのは「父なる神」と「イエスキリスト(子)」と「聖霊」は等しく神様だということです。ヨハネ福音書にはこうあります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない(1:1-3)」。この「ことば(ロゴス)」はイエスキリストのことです。つまり創造のはじめからキリストは存在しておられたし、キリストによってもこの世のすべては創造されたのです。キリストは単なる、「賢人(けんじん)」とか「預言者」以上のお方であり「神のひとり子(第2位格)」なのです。聖霊も同じです。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた(創世記1:2)」とありますが、創造の初めから存在しておられる「神の霊(第3位格)」なのです。創造の御業はこの三位一体の神の共同作業であり、「われわれ」の正体は、この三位一体の神なのでした。

この三位一体の神様は、愛によって一つです。キリストは「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」「わたしを見たものは、父を見たのです(14:9)」とおっしゃられました。そのようにしてキリストは徹底して、父の栄光を表しました。同様に聖霊なる神は、子なるキリストの栄光を表しています。キリストはこうおっしゃられました。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします(ヨハネ15:26)」。その他にも聖書には「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリ12:3)」ともあります。「創造」が三位一体の神の共同作業なら、「救い」もまた共同作業です。私たちは三位一体の神の愛に包まれ、この方によって再び新しく創造されるのです!

人格的な交わり(交流)をこよなく愛されるから、三位一体の神様なのです。そしてこの神様は、あなたとも人格的な交わりを築きたい、共に生きたいと願っておられます。また、そこに、私たちが創造された目的があるのです。そのことに気付く時、目の前に新しい人生が開けます!

だが、今、あなたを創造された主は、こう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。」(イザヤ43章1節 抜粋)

第6回 「聖書の神様~創造主~」 創世記1章、イザヤ46章

前回は「聖く、あわれみ深い神~」と題して学びました。これは、その前に学んだ、神様が「霊」であり、「ご人格」をもった方であるということとも深く結び付いています。つまり、この神様は「単なるエネルギー」とか「ご神体(神が宿るとされる物体)」とかではなく、今も生きて、私たち人間と、血の通った関係を築こうとされるお方なのです。また、それこそが、私たち人間か創られた(創造された)、目的でもあるのです。今回は、この創造について詳しく学びます。

「初めに、神が天と地を創造した」、これこそ、聖書の書き出しです。「初めに」を、ヘブル語では「ベレーシート」と言いますが、これは単なる時間のはじまりを意味するだけではなく「物事の起源」を意味する言葉です。つまり「神様は、この世界(宇宙)が誕生する前から存在しておられる、創り主であり、すべての根源なるお方である」という意味です(参照ヨハネ1:1)。そして、その神様が、一日目には「光と闇」、二日目には「大空」、三日目には「陸地・植物」、四日目には「太陽と月と星」、五日目には「空や海の動物」、六日目には「陸の動物、最後に人間」をそれぞれお創りになったと、聖書には書かれています。そして七日目に、神様は、休まれたとあります。

キリスト教信仰には幅があります。ある人は、この創世記をそのまま信じます。つまり、一日を文字通り24時間と信じ、神様が文字通り6日間で全てを創造されたと信じるのです。しかしある人々は、ちょっと違っています。一日の「日」は、ヘブル語で「ヨーム」といい、それは単に「時間的区切り」を表す言葉です。だから、必ずしもそれを24時間と理解する必要はなく、一億年だって、十億年だったいいと考えます。前者の人々は、進化論者と激しくぶつかります。アメリカでは公立学校で進化論を教えることに反対し、数多くの裁判も起こされています。しかし後者の場合は、進化論と矛盾しません。彼らは「進化論をあくまで、神様の創造の御業を、科学的に分析したものだ」ととらえるのです。これを「有神論(ゆうしんろん)的進化論」ともいいます。

大切なのは「意味」です。聖書の解釈に幅はありますが、違いを超えて、明らかな「真理」が二つあります。一つは「神様がこの世界をおつくりになった(1:1)」こと。そしてもう一つは、それらは本来「非常に良かった(1:31)」ことです。ヘブル語で創世記1章を読むと非常に興味深いことに気が付きます。それは、とことん「7」にこだわって書かれていること。1章1節は7つの単語で書かれ、1章全体は7区分に分けてまとめられています。「7」は聖書の「完全数」(そこからラッキーセブンという言葉が生まれた)。だから1章の最後には「それは非常に良かった」と記されているのです。一日が24時間か10億年かより、実はこちらの方が大切なことです。

自然に感動したことがありますか?私は大学生の時に、動物の遺伝について勉強をしていました。ですから、周りの友人たちも、生物学(進化論も含め)詳しい人ばかり。彼らは、冗談交わりに、よく私に言いました「今まで何を勉強してきたの?神が造ったって本当に信じているの(笑)?」しかし、ある日のこと、一緒に牛の解剖をしていた時のことです。その友人の一人が、目をキラキラさせて言うのです。「おい川村、やっぱり神はおるかもしれん!」私は今でも、その時の彼の顔を忘れることができまません。つまり、神を信じるか信じないかとは、言いかえれば、この世界(自然・宇宙)、しいては自分自身に、「偶然」以上の「必然」を見出すかどうかなのです。

もう少し簡単に説明しましょう。腕時計を見て、偶然に出来たと考える人がいるでしょうか?家を見て、自然にできたと考える人がいるでしょうか?いいえ、それを作った人(人格)がいると考えるのは当たり前のことです。また作られたものには、創った人の目的(願い)が込められているものです。私たち人間は、時計や家以上に素晴らしい存在です。それを創った方がいると考えるのはある意味当たり前であり、創られたからには、そこに目的があると考えるのは、当然のことではありませんか。ある人は、この創造を導いたお方を「サムシング・グレート」とか「インテリジェント・デザイナー」と呼びます。しかし聖書によれば、この方こそ「神(創造主)」なのです。

神様の創造の御業は本当に素晴らしい。罪によって、幾分くすんでいますが、その輝きは私たちの心に感動を与えます(このテーマはまた後日)。でも気をつけて。被造物を拝むのではなくて、その被造物を創られた方を礼拝するのです。私たちは、この創造主に愛されているのです!


初めに、神が天と地を創造した。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。
創世記1章1,31節

2011年9月10日土曜日

第5回 「聖書の神様~聖く、あわれみ深い神~」 詩篇103編、イザヤ6章

前回は「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」と題して学びました。その中で、聖書に記されている神様が、石や木に刻まれた神々ではなく「霊なるお方である(ヨハネ4:24)」と学びました。単に目に見えないという意味ではなくて、私たちの心の中までも知っておられ、全てを知った上で、私たちのことを愛しておられる、人格的な神様であることを表していました。今回の箇所も、それと関連していますが、今回は特に「聖(きよ)く」て「あわれみ深い」という、二つの観点から、神様のご性質(専門的な言葉で「属性(ぞくせい)」)に光を当てたいと思います。

まず神様は「聖(きよ)い」お方です(ヨハネ4:24)。「聖い」をヘブル語で「カドーシュ」と言います。それは、もともと「切り離す」とか「分離する」という意味ですが、この言葉が神様のご性質を表す言葉として用いられるようになりました。なぜか?それは聖書の神様が、人間とは根本的に「分離し」「切り離されている」「おそれ多いお方」であるからです。日本の神々は、とても人間的です。時には間違いも犯し、人間が神になったりもします。でも聖書の神様はそうではありません。聖書にこうあります。「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか(出エジ15:11)」。だから、イザヤは、この完全で、聖い主を見た時「あぁ私はもうだめだ」と言ったのです(6:5)。「神々(こうごう)しい」とでも言いましょうか。本来、この神様の光に照らされる時、すべての罪も闇も、私たちも、滅びて失せてしまうのです。

この聖い神様は「罪」を忌み嫌われます。ある人は分かりやすく「神様は罪に対してアレルギーを持っておられる」とも表現しました。罪に関しては、また詳しく学びますが、聖書にこうあります。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者(箴言6:16-19)」。こうした罪を嫌う神様の性質のことを「義(ぎ)」とも呼びます。前回学んだように、神様は全知全能なのですが、出来ないことが二つあります。一つは「罪」を犯すこと。それは、ご自身の性質に反すること(自分を偽ること)だからです。神様は、ご自分でさえも「偽ることのない神(テトス1:2)」なのです。つまり、神様にとって一番難しいことは、罪をうやむやにしたり、見なかったりすることです。

しかし、聖書の神様は「あわれみ深い神」でもあります。聖書にはこうあります。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる(詩篇103:8-13)」。もしかしたら、このことに関しては、先ほど紹介した神様の性質とは矛盾するように聞こえるかもしれません。実際この両者の間には、激しい葛藤が存在します。一方は、聖く、罪をとことん嫌われる神様。でも、もう一方では、罪ある私たちを、とことん愛し、赦したいと願われる神様…。

神様に出来ないもう一つのこと、それは「私たち人間を愛さないこと」です。聖い神様から見れば、私たちなんて、欠けだらけで、愚かで、ちりに等しい存在です。でも神様は、そんな私たちを、愛さずにはおられません!なぜか?それは神が愛だからです(1ヨハ4:16)!!愛とは、何でもホイホイ赦すような、いい加減なものではありません。聖い神様にとって、罪を赦すことは、最も苦しく、最も難しいことです。でも神様は、その深い葛藤を、文字通り血を流す苦しみをもって克服してくださいました。ここに神の愛があるのです。神の愛と神の義は、表裏一体なのです。

神様の「聖さ」と「あわれみ」、「義」と「愛」。この両者の深い葛藤に、ご自分を犠牲にして、橋を渡してくださった方がいます。それがイエス・キリストです。このことは、また改めて…。

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3章16節

第4回「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」 詩篇139編、イザヤ43章

前回は「聖書~神様からのラブレター~」と題して学びました。聖書にはカタカナが多く、難しいというイメージがありますが、ラブレターだと思って読むと少しワクワクします。ラブレターなのだから、読み方にも気を付けなければいけません。分析的になり過ぎず、相手が自分に何を伝えようとしているのか、そのメッセージに集中して読むことと、聖書の真の著者は神様なのだから「この聖書を通して私にも語りかけて下さい」と、祈り求めながら読むことなどが大切だと教えられました。そうして読む時、聖書の言葉が、生き生きと私たちの心にも語りかけてくるのです。そして今回はいよいよ、聖書に神様はどのように紹介されているのか、というテーマです。カミガミと呼ばれるものは数多くありますが、聖書の神様はいったいどんなお方なのでしょう?

聖書にはまず「神は霊である」と紹介されています(ヨハネ4:24)。分かりやすくいうと、形がないということです。形がない方を、木や石の像にしてはいけないと聖書にはあります。また霊であることは、場所や状況によらず、どこにでも(いつでも)存在されるということです(詩篇139:7)。私はこのことを海外で強く感じました。日本でも信仰をもっていましたが、遠く離れた海外でも同様に、祈りがきかれる体験を通し、この単純な真理に目が開かれました。また言葉も分からず、八方ふさがりで、もがき苦しんだ時もありましたが、神様はいつも近くにいて、勇気づけて下さいました。まさしく聖書にある通りです。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)」

また神様は、全知です。むかし森永製菓のCMには「だあれもいないとおもぉっていても、どこかでどこかでエンゼルは~♪」という曲が流れていました。きっと創業者の森永太一郎がクリスチャンであったことも影響しているでしょう。世の中では「人にバレなければいい」といった考え方もあります。でも、人にはバレなくても、神様は全てをご存知(全知)なのです。しかも私たちの心の中まで…。聖書にはこうあります。「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます(詩篇139:4)」。あなたがいま考えていること。心でひそかに願っていること。一人で行っていること。それらをスクリーンに映し出したらどうですか?恥ずかしくないですか?本当に大切なのは、人ではなく神様に見られているということです。

更に神様は全能です。聖書にはたくさんの奇跡が登場します。モーセがイスラエルの民をひきいて紅海を渡ったこと、エリヤが天から火を呼び下したこと。でもキリストが「神にはどんなことでもできます(マタ19:26)」と言われる場合、それは「神様には、人を、罪や、無気力や、目的のない人生から、救うことができる」という意味です。つまり一番の奇跡は、状況を変えることではなく、心(生き方)が変えられることなのです。しかも神様は無理やり人の心を変える(あやつる)ことはなさいません。ジム・キャリー主演の「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、そのことが面白おかしく描かれています。その映画の中で、ある男が神様から「全能の力」を授かります。でも彼には、愛する女性の心を無理やり自分に向けさせることだけはできないのです。

最後に「神が霊である」とは「人格」をもっておられるということです。人格とは「自分で自分を意識し、ものを考え、自分で決定し、行動する、生きた存在だ」という意味です。これは「愛する」ことにおいて必要不可欠な要素です。人格のないロボットと人間の間に「愛」は成立するでしょうか?人によってプログラムされた愛の告白にどれほど価値があるのでしょうか?いいえ、きっと嬉しくないでしょう。愛さないという選択肢がありながらも、愛するからこそ、愛には価値があるのです。神様は私たちのことを愛しておられます。聖書にこうあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」。神様に、私たちを愛さなければいけない義務があるでしょうか?私たち自身の内に、それほどの価値が備わっているのでしょうか?でも神様は、愛すると決意し、価値を認め、行動される(十字架を選ばれる)のです。

そして神様は、私たちにも人格を与え自発的な心で振りむいて欲しいと願われています。また自発的な心で新しい人生に漕ぎ出してほしいと願われています。神様は全能な方ですが、本当の意味で愛し愛される関係を築くためには、その力を控えられ、相手の決断にゆだねられるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ43章4節(抜粋)

第3回「聖書~神様からのラブレター~」 Ⅱテモテ3:14-17、Ⅰペテロ2:2-3

前回は「知られない神(お父さん)に」と題して学び、このように語りました。「心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?お父さんの愛が、心に響いてきます」。でも、どうしたら私たちは、このお父さんの声を聞くことができるのでしょうか?どうしたら、その豊かな愛を知ることができるのでしょうか?一言でいえば、それは「聖書(Bible)」を通してです。聖書は、ギネスにも認定された世界の隠れたベストセラーであり、現在も多くの人々の人生に決定的な影響を及ぼしている「本の中の本」です。(*国際聖書協会の発表によると、2000年の1年間に、約6億3300万冊が配布・販売)

そもそも聖書は「いつ」「誰が」書いたのでしょうか?聖書は大きく、旧約聖書(39巻)と新約聖書(27巻)に分けることができます。一番古い「創世記」は今から約3500年前に書かれ、一番新しい「黙示録」は約1900年前に書かれました。つまり創世記から黙示録まで全部書かれるのに、およそ5400年もの歳月を要していることになります。また書いた人は、当然一人ではなく、約40人の人々によって書かれています。この人々は、時代や場所、言語や教育も全く異なった人々で、預言者もいれば、王や学者もいるし、医者や漁師や税務署の職員など、本当に多種多様な人が関わっています。にもかかわらず、聖書には驚くほどの統一性があります。それは、聖書の「真の著者」が神様であるからです。もちろんそれは、神様が人を支配(manipulate)して、一方的に書かせたという意味ではなく、その人の性格や賜物を用いながらも、神様が導かれたという意味です。だから諸要因によるところの差はあるものの、メッセージにおいては一貫しているのです。

そのメッセージテーマとは何でしょう。それは「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること(Ⅱテモテ3:15)」です。聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があると言いましたが、「約」は、「約(promise)」であり「訳(translation)」ではありません。旧約聖書には、神様が与えられた戒め(律法)を守る者は祝福されるという「旧い契約」や、やがて救い主がお生まれになるという「約束」が記されています。また新約聖書には、「約束の成就」としてお生まれになったイエス・キリストと、このキリストを信じる者は誰でも救われるという「新しい契約」が記されています。もう少し分かりやすく言うと聖書には、①神様が私たちを愛しておられること。②でも私たちはその神様を裏切ってしまったこと。③にもかかわらず神様は私たちを愛し、驚くべき方法で救いの道を用意して下さったこと。④私たちはどうしたらその救いを受け取ることができるのか。⑤そして信じた者は、どのように生きていったらよいのか、などについて書かれています。この聖書は「神様からの愛」がギッシリ詰まっている「神様からのラブレター」なのです。

読み方に注意してください。17世紀の啓蒙(けいもう)主義以降、聖書は色々な方法で分析され、批判されてきました。すなわち、歴史的、文学的、科学的に「でたらめだ」とされたのです。18世紀フランスの無神論者ヴォルテールは「百年以内に聖書はこの世界から消える」と宣言しました。しかし聖書はなくなりませんでした。それどころか、ますます力強く世界中に広がり、多くの人々に生きる希望と勇気を与え続けているのです。聖書の目的は、私たちに「神の愛」を伝え、救い、豊かな人生に導くことです。ラブレターを科学的に分析して読みますか?そんなことをしたら、せっかくのラブレターが台無しです。聖書も同じです。神の愛を、科学のメスでズタズタに引き裂いてはいけません。科学的にでたらめだと認めているのではありません。例えば、千年前の人々に、今日のコンピューターやIT社会を想像することができたでしょうか?タイムマシンで遡り、いくら熱心に説明しても、彼ら自身の手で書き残す説明には限界があるしょう?ましてや、神様の創造の神秘や天国の素晴らしさについて、神様がどんなに人の心に語りかけても、言葉で書き残すのには限界があるのです。ラブレターの使命は、あくまで愛を伝えることです!

どうか批判的にならず、聖書の言葉を深く味わってみてください。本当か嘘か、分析しながら読むのではなく、神様がこの言葉(みことば)を通して、私に何を語ろうとしておられるのか、そのメッセージに意識を集中しながら読んで下さい。「神様、私にも語りかけて下さい」と祈りながら聖書を読むと、不思議なことがおこります。聖書が節妙なタイミングで、語りかけてくるのです。その不思議を体験したら、疑問なんてちっぽけなこと、もっと神様を知りたくなります。

生まれたばかりの乳飲み子のように、
純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、
主がいつくしみ深い方であることを
味わっているのです。Ⅰペテロ2章2-3節