2012年3月8日木曜日

第18回 「イエスの生涯―十字架③」 Ⅰコリント1章18-31節

前回私たちは、イエス様が十字架で死なれた際、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた箇所を読みました(マタイ27:51)。それは文字通り新しい時代の「幕開け」でした。もはや神様と私たちの間に、仕切りの幕はありません。十字架という「道」が敷かれ、この道を通して、私たちは父なる神との「親しい交わり」という「永遠のいのち」をいただいているのです。しかし前回、一つだけ語らなかったことがあります。それは「群衆がなぜイエスを十字架につけたのか」ということです。祭司長や律法学者たちは「激しいねたみ」からでした。でも群衆はつい一週間前「ホサナ」と叫んでいたのに、急に「十字架につけろ!」と叫びだしたのです。なぜでしょうか?

彼らは弱々しいイエスにつまずいたのです。群衆が「ホサナ、ホサナ」と熱狂的にイエスをエルサレムに迎えたのは、自分たちの王となって欲しいとの期待を寄せてのことでした。彼らはこのように叫びました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に(マタイ21:9)」。そうなのです。彼らは、イエス様がダビデのような王様となり、イスラエルの黄金期を取り戻してくれることを期待し、「神の国」を、そんな自分たちの願望に重ねて理解したのです。しかしピラトの前に取り調べを受けるイエスは、小羊のようにおとなしく、不利な証言に言い返すこともなく、弱々しく見えたのです(イザヤ53章)。その姿に失望した群衆は、祭司長や律法学者たちよりも声を大にして「十字架につけろ!」と叫び出しました。実はこれも、旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書にはこうあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(53:1-5抜粋)」。

多くの人は、今でもこのイエスの十字架につまずきます。前回も記しましたが、ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。またある人は「どうして2000年前のイエスの十字架が私たちを救うんだ」とつまずきます。実際、私自身もそのように考え、誰にも言えず、長い間もがき苦しんできました。もちろん答えは聖書にあります。聖書の中から丁寧に御言葉を引用し、そのような疑問に答えていくことは大切です。そういった地道な学びが欠けているために、救いの確信を得られない人も多くいるのではないでしょうか。しかし誤解をしてはいけません。私たちは決して「知的に納得したから救われる」のでもありません。信仰とは目に見えないことを確信し(ヘブル11:1)、幼子のように受け入れ(マルコ10:15)、実際に行動に移すことなのです。分かりやすく言えば、ペテロは納得したらから湖の上に一歩を踏み出したのでしょうか?いいえ。彼は信じたからこそ一歩を踏み出したのです(マタイ14:22‐33)。信仰もまた、水の上に一歩を踏み出すようなものです。

なぜ神様は、私たちを救うのに「十字架」という方法をとられたのでしょうか?それは「神の御前で誰も誇らせないためです(1:29)」。多くの人は、宗教に自己実現を求めます。「これを信じたら、立派になれます。人からも認められます。豊かになります。成功します。」など、とにかく上昇志向の道具として「神」を利用しようとするのです。でもそれは、結局自分を「神」として、自分を誇ろうとしているだけなのです。ユダヤ人も同じです。彼らは自分たちが望む「王国」の実現のために、イエスを利用しようとしたのです。ギリシヤ人にとっての自己実現とは、知恵を得ることです。それが一番、人から認められることだからです。でも「十字架の福音を信じた」といって、どれだけ人から認められるのでしょうか?少なくとも十字架とは、外国ローマの処刑の道具で、しかも奴隷など特に身分の低い人を、見せしめとして処刑するための道具だったのです。でも神様は、そのような十字架で死なれた「救い主」を「信じる」ことによってのみ救われる、と定められたのです。それは私たちが、ただ十字架のキリストを誇る者となるためでした(1:31)。

あなたの誇りは何でしょうか?もしあなたが、本当に自分に死に、幼子のように素直になり、キリストの十字架の福音を受け入れ、神を神とし、主のみを誇りとするなら、その信仰があなたに力を与えるのです。得ようと思うものはそれを失い、喜んで放棄する者は豊かに与えられます。

十字架のことばは、
滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、
神の力です。
(Ⅰコリント 1章18節)


2012年3月1日木曜日

第17回 「イエスの生涯―十字架②」 マタイ27章

前回は旧約聖書より、イエス様の十字架の背景を学びました。昔の人々は、牛や羊に、自らの手を置くことによって(また年に一度は大祭司が代表して手を置くことによって)罪を動物に負わせ、いけにえとしてほふり、それによって罪の赦しを得ていました。しかしイエス様は、ご自分のからだをもって、ただ一度、完全な、いけにえ(傷のない小羊)となってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです(ルカ23:34)。私たちはただ信仰によって、2000年の時を超えて、十字架のイエス様と霊的に一つされ、罪(古い自分)に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。今日はその理解を、新約聖書を通して、深めたいと思います。

そもそもなぜイエス様は十字架に架かられた(つけられた)のでしょうか?直接的な原因は、パリサイ人や律法学者などの「激しいねたみ」でした(18)。イエス様は、形式(律法)だけの宗教の虚しさを厳しく指摘され、神様と隣人に対する愛を説かれました。それが形だけの宗教で利益を得、自分の立場を守ろうとする、宗教的指導者層の逆鱗に触れたのです。イエス様には何の罪もなかったことは、取り調べたピラトも、彼の妻も告白しています。ピラトは言いました「あの人がどんな悪いことをしたというのか(23)」、また彼の妻も「あの正しい人にはかかわり合わないでください(19)」と言っています。群衆も、数日前までは熱狂的に「ホサナ!」とイエス様を迎え入れていたのに(21:9)、祭司長たちに説きつけられ(20)、まるで何かに取りつかれたかのように激しく「十字架につけろ(22)」と叫びます。これはもちろん彼ら自身の言葉なのですが、彼らの中にある罪がそう叫ばせているとも言えるでしょう。イエス様は、すべての人の罪を赦し、神の子どもとし、神様との交わり(平和:シャローム)を回復するために、十字架にかからなければならなかったのです。これこそ、イエス様が十字架にかかられた、真の目的なのです(ロマ3:23)。

イエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。しかし思い違いをしてはいけません。三位一体の神であり、完全な一致を保っておられる父と子が、罪によって分断され、引きはがされたからこそ、十字架には肉体的な苦しみ以上の苦悩があったのです。第9回でこう学びました。「人間が神のようになり、自分勝手に生き始めた結果、『神のかたち(平和)』は大きく歪められ、苦しみと悲しみが全人類に広がりました。そして人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく『神様との断絶』を意味します」。本来ならば、私たちが、あの十字架の上で『神との断絶』という、肉体的かつ霊的な苦しみを味わわなければならなかったのです。しかし、一方的な恵みによって、神のひとり子であるイエス様が、すべての罪と咎とを負い、十字架にかかってくださったことにより、私たちは、価なしに義と認めら、神との平和を回復したのです(ロマ3:24)。

キリストの死の瞬間、神殿の幕が真っ二つに裂けました。文字通り、新しい時代の「幕開け」です。前回もお話ししましたが、旧約時代には年に一度、大祭司が神殿の幕の内側にある「至聖所」に入り、民全体の罪のために祈りました。でもイエス様は、ご自分が「神の大祭司」として、またご自身が「完全ないけにえ」となることによって、平和(神との和解)を成しとげて下さったのです。これが新約時代の幕開けです。この時代に生きる私たちは、大祭司によらず、いけにえによらず、「ただ信仰によって」、大胆に神に近づき、罪の赦しと、永遠のいのちをいただくことができるのです。もはや神様との間に、隔ての壁も、敵意も、仕切りの幕もありません。目の前には十字架という道が敷かれており、その先には、主とともに歩む、新しい人生が待っているのです。ヘブル人への手紙にはこうあります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです(10:19-20)」。

躊躇していることはありませんか?イエス様がいのちを投げ出して、隔ての壁を、神殿の幕を取り除いてくださったのです。目の前には、天の父なる神が、両手を広げ、待っていてくだいます。そのお方は誰よりも私たちのことを知っていて、愛にあふれ、ともに人生を歩みたいと願っておられます。何も心配することはない。目の前の十字架の道を、大胆に踏み出してみませんか?

こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、
大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
(ヘブル10章19節)