2011年7月15日金曜日

第1回「何をしてほしいのか」 マルコ10章35-45節

今日から信仰入門テキストを始めます。まだクリスチャンでない人は、多少なりともクリスチャンが何を信じているのかに興味があってこのテキストを読んでいることでしょう。またクリスチャンは、折に触れて自分の信仰を確認し、自分の信仰が自己流になっていないか確認する必要があります。そうする中で、今度は自分が初めての人に語る準備をするのです。第一回のテーマは「何をしてほしいのか」です。これはイエスの言葉であり、あなたに対する問いでもあります。

「あなたは、わたしに何をしてほしいのか」。多少の言葉の違いはありますが、今日の聖書の箇所には、ほぼ同じイエスの質問が二回繰り返されています(36,51)。これは明らかに対比されていますし、それだけ重要な問いであるということです。もしイエスが目の前に立って、同じ質問をされたら、あなたはどのように答えますか?お金でしょうか、成功でしょうか?家族の幸せでしょうか?問題の解決でしょうか?私たちの人生は、①私たちが何を望んでいるのか、②そして誰に望んでいるのか、によって決定づけられてきます。ある人は「私たちの顔(表情)は、私たちが礼拝しているもの(強く望んでいるもの)に似てくる」といいました。私たちが望んでいるもの、そして頼りにしている存在は、それだけ私たちの人生に大きな影響力をもっているのです。

二人の弟子ヤコブとヨハネは「権力」を望みました。いや他の10人の弟子たちもそれを聞いて腹を立てたとありますから、同じように「権力」が欲しかったのでしょう。そんな彼らにイエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていないのです(38)」。正確に言えば、彼らは「自分が誰に何を求めるべきか」「その求めているものが自分の人生にどのような影響を及ぼすのか」まったく分かっていないということです。その点において、この後バルテマイという盲人が登場しますが、実は弟子たちの方こそ「(心の)盲目」であったといえるでしょう。しかしイエスはそんな彼らをしかるでもなく、やさしくこう諭されました。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい(43)」。私たちの願いとイエスの答えは、必ずしも同じというわけではありません。

あなたは何を求めてこの学びを始めましたか?私たちはこの地上で色々なものを欲しがります。その欲望はとどまるところを知らず、ひとつの願望をかなえたら、すぐにまた次の願望が生まれます。それ自体が悪いわけではありませんが、本当に大事なことを忘れていないでしょうか?それを忘れ、他のものをいくら追い求めても、心は満たされないでしょう。逆に本当に大切なものを手に入れたのなら、他のものはわずかでも、心は平安なのです。問題は、その大切なものが「何」であるのか、生まれながらの私たちには分からないということです。あなたがこれから学ぼうとしていることは、もしかしたら、あなたが「今すぐ」知りたいと思っていることとは違う(ズレている)かもしれません。しかしそれでも諦めないで、ここに「何か」があると信じ、求め続けるなら、そこに人生の新しい境地(宝)が広がっているのです。宝捜しの人生はもう始まっています。

バルテマイは二つのことを叫びました。「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい!(48)」「先生、目が見えるようになることです(51)」。私たちも、バルテマイのように叫ぶことができたら、何と幸いでしょうか。バルテマイは上着を脱ぎ捨てて立ち上がりましたが、私たちも、何重にも着こんでいる上着(「プライド」や「欲望」、「今まで探しても見つからなかったという失望」など)を脱ぎ捨てて、子供のように叫ぼうではありませんか。「イエス様!私にはあなたが誰なのか分かりません。自分が本当に何を求めるべきなのかもよく分かりません。私をあわれんでください。心の目が見えるようになって、本当に大切なものが『何』であるかを知ることができますように」。

あなたが求め始める時、内から外から「止めさせようとする力」も働くものです。でも、その力に負けてはいけません。バルテマイは、大勢からたしなめられましたが、ますます大声で「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい」と叫びました。あなたも諦めずに叫び、捜し、求め続けるなら、きっと答えが見つかります!

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
マタイ7章7-8節