2011年11月25日金曜日

第10回 「人間の罪」 出エジプト20章1-17節、マタイ5章21-30節

前回私たちは、「神のかたちが壊れる時」と題して、このように学びました。「善悪というものは、私たちが決めることではありません。たとえ100パーセントは理解できなくても、神様の『ことばと戒め』を畏れることが、神を神とするということであり、善悪の知識の始まりなのです」。でもここで一つの疑問が生まれます。もしそうならば、なぜ神様は人間を、完璧に従うロボットのように創られなかったのでしょうか?それは神様が、人間を、愛し交わる(共に生きる)相手(パートナー)として創られたからです。愛は強制によっては生まれません。あらゆる可能性(時には愛さない選択肢もある中で)愛することを選び取るからこそ、愛には価値があるのです。

しかし人間は、その自由意思をもって罪を犯してしまいました。神のかたちに創られた人間は、多くの能力を任されていました。①被造物を管理する能力。②地上に増え広がり豊かな文化を生み出す創造性。③鼻から「いのち息」を吹き込まれた特別に霊的な存在であり(創2:7)、④神様の価値観(良心)を宿す存在として。でも人間はその特別な能力を「自分の欲望を満足させるため」に用い、しかも用い続けるようになったのです。その結果、神のかたち(神の平和:シャローム)は大きくゆがめられてしまいました。罪の本質とは自己中心です。自分に与えられている賜物や能力を、自分の快楽のために用いたいと思う心のことです。そしてそのためなら、人と神様との関係がどうなってもいいと思う心のことなのです。罪のことを、ギリシャ語ではハマルティアと言いますが、直訳すれば「的外れ」です。本来、神と人を愛するために与えられた能力を、人間は自分のためだけに用いるようになってしまったのです。神様はどんなに悲しいことでしょう。

そんな人間に、神様は十戒を与えられました。これによって、人が神様の前に、何が「罪」なのかを知るためでした。この十戒は大きく前半と後半に分けられます。前半の第1戒から4戒は「神様と人間との関係について」、後半の第5戒から10戒は「人と人との関係について」です。第5戒は前半と後半をつなぐ役割を果たしています。しかもイエスは新約聖書の中でその適用範囲を心の中まで広げられました(マタイ5章)。例えば、心の中でも人を殺してはいけない。腹を立て「能なし」と言う者は、既に心の中で殺人を犯しているのです。また、情欲をいだいて女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯しているのです、と教えられました。もしそうなら、だれが「自分の内には罪がない」と言えるでしょうか(Ⅰヨハネ1章8節)?誤解のないように。神様は「君たちはみんな罪びとだ」と罪悪感で束縛するために、こう言っているのではありません。戒めを与えることで、こわれた人間の社会に秩序を与え、平和(シャローム)を回復しようとされているのです。直接ふれられていませんが、その回復は被造物にまでおよびます(ローマ8:21)。

それでも人間は、自分のことしか考えられませんでした。人間はこの十戒を「自分が裁かれないために」守り行おうとしたのです。言い方を変えれば、自分さえ救われればいいと、律法を守ろうとしました。そればかりか、十戒をはじめとする律法を、知らない人をバカにし、守れない人を裁き、冷たい視線をあびせ、自己満足におちいっていたのです。それは一見、教えを忠実に守る熱心な信仰であるかもしれませんが、その心はまったくの「自己中心」で「的外れ(ハマルティア)」でした。クリスチャンはそうであってはいけません。「自分だけが滅びないために神様を信じる」「自分だけが祝福されるために教会生活を守る」「神様を知らない人や、聖書の教えを守れない人は、裁かれても仕方ない」そういった考えは、すべて「自己中心」で「的外れ」です。十戒は今日も有効で守るべき基準ですが、すべて完璧に守ったとしても、そこに神様と隣人とに対する愛がないなら何にもなりません。かえって有害です。それこそ、神様を深く悲しませる思いです。

もう一度自分の心を点検しましょう。できれば十戒について、もう少し詳しい学びの時をもち、暗記するのが良いでしょう(別テキスト)。きっと、これからの大切な判断基準となるでしょう。それと同時に、あなたの心の中に「愛」があるか点検しましょう?正しいだけでは不十分です。そこに愛が加わり、本当の意味で平和をつくる者とされるのです。しかし愛に生きようとすればするほど、どこまでも自己中心な自分の姿も明らかになることでしょう…。その続きはまた次回。

もし、本当にあなたがたが、聖書に従って、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という
最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、
その人はすべてを犯した者となったのです。
(ヤコブ2章8,10節)

そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、
それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ22章37-40)

第9回 「神のかたちが壊れるとき」 創世記2章16-17節、3章1-19節

前回私たちは、人間が「非常によい(1:31)」「神のかたち(1:26-27)」に創られたことを学びました。つまり、神様の作品として、創造性や管理能力において、また霊的な存在として、素晴らしく創られているということです。聖書にはこうあります。「あなた(神様)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました(詩8:5)」。これは驚くべきことです。また、この「神のかたち」の「かたち」とは、三位一体の神に見られる「関係」のことでもありました。私たちは、大きく分けて4つの関係の中に生かされています。①神様との関係。②自分自身(良心)との関係。③隣人との関係。④被造物との関係(図参照)。この関係が健全に保たれていることが、聖書で言うところの「平和(シャローム)」であり、この平和の中にいる時、私たちは平安を感じるようにつくられているのです。



しかし、この「神のかたち」はあることをきっかけに、大きく歪められてしまいました。それは神様が食べてはならないと言われていた、善悪の知識の木からとって食べたことによってです。もともと神様は、こうおっしゃられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(2:16-17)」。そもそも、神様はなぜそんな木を「園の中央に(3:3)」お創りになったのでしょうか。それはいつも人間が、その木を見て、神様を神様とすることを学ぶためだったのです。善悪というものは、私たちが決めることではありません。たとえ100パーセントは理解できなくても、神様の「ことばと戒め」そして「神様ご自身」を畏れることが善悪の知識の始まりなのです(箴言1:7)。逆に言うと聖書の罪とは、神様(聖書)はこう言っているけど、私はこちらの方が正しいと思うし、私はこうしたいと思うと自分の考えや気持ちを優先するところから始まるのです。

蛇(悪魔)は人を誘惑する天才です。その手口は下記の通りです。①まず「本当にそうですか(3:1)」と神様とその言葉に疑念を抱かせます。②また神様を非常に偏狭な方だと思わせたり、神様に従うことによって自分が損しているように思わせたりします。具体的には「あなたがそれを食べるときに、あなたが神のようになることを知っているのに、それを黙って教えないんだよ」と神様の愛を疑わせるのです(3:4-5)。③そして罪を、いかにも美味しそうに(楽しそうに)見せるのです。罪とは、犯すまでは非常に魅力的なものです。しかし一度犯してしまうと、後悔と、苦々しさが残るのです。もちろん原因は、蛇(悪魔)だけにあるのではありません。エバは神様の言葉を「極端にしたり」「薄めたりして」しまいました。例えば、神様は「触れてもいけない」とはおっしゃってないのに、そう言ったと極端に厳しくしてみたり、肝心なところで「必ず死ぬ」とおっしゃられたのに、「死ぬといけないからだ」と曖昧にしたりして、歪めてしまったのです(3:3)。

その結果、人は多くのものを失いました。①まず神様との関係が壊れ、良くない意味で神様を恐れ、嫌煙するようになりました(3:9-10)。②また心にやましさが生まれ、自分(良心)との関係も壊れてしまいました(3:8)。③隣人との関係も壊れ、互いに訴え合うようになりました。愛し合い、一つとなるはずの夫婦にも、間違った上下関係が生まれました(3:12-13,16)。④そして被造物も人間の罪ゆえに呪われてしまったのです(3:17-18)。人間の自己中心により自然破壊が進み、自然によっても苦しめられるようになりました。まとめると、人間が神のようになり、神様に代わって善悪を判断し始めた結果、「神のかたち」は大きく歪められ、シャローム(平和)も失われ、苦しみと悲しみが全人類に広がったのです。そして何より、人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく「神様との断絶」を意味します。

あなたは、神を神としていますか?そこが崩れるときに、すべてが連鎖的に崩れていくのです。あなたは生きていますか?それとも死んでいますか?肉体のことではありません、魂のことです。

ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、
こうして死が全人類に広がった(ローマ5章12節)

第8回 「神のかたちに創造された人間」 創世記1章24-28節、2章24-25節

私達は、何のために生きているのでしょう?その問いに答えるためには、まず「私達は何のために創造されたのか」また「本来どのような存在として、創造されているのか」という問いに取り組まなければいけません。第6回の 「創造主」の学びでは、こう説明しました。「身の回りの全ての作品には、作った人と、作った人の意図(目的)が存在します。私たちは神様の作品です。ならば、私たちにも創った方がいて、創られた目的があると考えるのは、当然のことではありませんか」。また前回は、このように学びました。「この三位一体の神様は、愛によって一つです。この神様は、あなたとも人格的な交わりを築き、共に人生を歩みたいと願っておられます。実はそれこそ、私たちが創造された目的でもあるのです」。今回はこのテーマを更に深めていきたいと思います。

私達は本来「神のかたち」に創造されました。創世記1章27節にはこう記されています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」。ひと口に「神のかたち」と言っても、そこには色々な意味があります。まず「○○でない」という言い方をすると、これは文字通りの「姿かたち(外見)」のことではありません。すでに第4回でも学んだように「神様は霊であり、形がない」からです。では一体「神のかたち」とは、どういう意味なのでしょうか?そこには「創造性」「管理能力」「霊的(人格的)存在」など、色々な意味が含まれています。「あなた(神様)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました(詩8:5)」。しかし今回はある事に焦点を絞ってお話しいたします。

あらためて「神のかたち」とは、一体どういう意味なのでしょうか?実は、日本語でも同じような表現をします。例えば「新しい夫婦のかたち」とあれば、その「かたち」はどういう意味でしょう?少なくとも「姿かたち」という意味ではありません。その場合の「かたち」は「関係」を意味しています。つまり人が神のかたちに創造されているとは、「人が三位一体の神のかたちに似せて、関係の中で生きる存在として創られている」という意味なのです。「神は人をご自身のかたちとして…男と女とに彼らを創造された」とありますが、三位一体の神様は愛によって一つです。そして、人間も本来、愛によって一つとなる存在として創られているのです。その典型的な例が夫婦です。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである(2:24)」とあります。罪が入る前の人間には、こういった混じりけのない関係の中で生きる存在でした。

その「関係」は、夫婦だけに限定されません。人間は大きく分けて4つの関係に生かされています。①神様との関係。②自分自身(良心)との関係。③隣人との関係。④被造物との関係。人間は本来、この4つの関係に生きる「神のかたち」であり、この関係が健全に保たれている時、私たちは「幸せ」を感じます。ちなみに聖書で言われている「平和(シャローム)」とは、単に「世界人類が平和でありますように」というレベルの話ではなく、この4つの関係が全領域にわたって健全に保たれている状態のことをいいます。そういう視点をもって創世記2章を読むと、エデンの園は「まことにシャローム」であったことが分かります。また聖書には「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)」ともあります。



もう一度、自分自身の状態を振り返ってみましょう。あなたの「神のかたち」は健康に保たれていますか?神様を愛していますか?自分自身を愛していますか?隣人を愛していますか?被造物を愛していますか?あなたは幸せですか?もし幸せでないなら、どの関係に亀裂が入っていますか?あなたはシャローム(平和)に生きるために創られたのです。その平和に生きましょう!

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)

2011年9月28日水曜日

第7回 「聖書の神様~三位一体~」 創世記1章、ヨハネ1章

前回は「創り主」について学びました。神様は、石や木で作ったもの(偶像)ではなくて、この宇宙と地にある全てのものを創られた方(創り主)でした。このお方は「ただお一人」なのです。「シェマー(ヘブル語の「聞きなさい」)」と呼ばれる、聖書の最も基本的な教えがあります。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである(申命記6:4)」。イエス様も同じように教えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である(マルコ12:29)』」。しかし、聖書には一見矛盾するような記述も…。

なんと、神様はご自分のことを「われわれ」と呼んでいます!創世記1章27節にはこうあります。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(正しく管理)するように』」。どういうことなのでしょうか?神様は「唯一」でありながら「複数」でもあるということでしょうか?マタイ28章19節にヒントがあります。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」。この「御名」にはギリシャ語の単数形が用いられています。「父なる神」「子(イエス・キリスト)」「聖霊」という三つの人格にして、ひとつの神の名(実体)を持っておられるのです。



分かりにくいですか?無理もありません、神様は私達の理解を超えて偉大なお方です。歴史上の神学者たちが、完璧な説明を求めてきましたが、いまだに成し遂げた人はいません。常識的には「1+1+1=3」なのに、神様においては「1+1+1=1」なのです。ある人は「水には『固体(氷)』『液体(水)』『気体(水蒸気)』があるけれども、どれも同じ『水』である。つまり神様も、時と場合によって『父』『子』『聖霊』と現れは色々だけれど、本質的には同じである」と説明します。しかし厳密にいえば、これも完全な説明ではありません。なぜなら神様は、三つの人格を有し、その三つの人格は、完全に自立し、混じり合うことはないけれど、完全に一つの神様であるからです。このような神様理解のことを「三位一体(さんみいったい)」と言います。

大切なのは「父なる神」と「イエスキリスト(子)」と「聖霊」は等しく神様だということです。ヨハネ福音書にはこうあります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない(1:1-3)」。この「ことば(ロゴス)」はイエスキリストのことです。つまり創造のはじめからキリストは存在しておられたし、キリストによってもこの世のすべては創造されたのです。キリストは単なる、「賢人(けんじん)」とか「預言者」以上のお方であり「神のひとり子(第2位格)」なのです。聖霊も同じです。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた(創世記1:2)」とありますが、創造の初めから存在しておられる「神の霊(第3位格)」なのです。創造の御業はこの三位一体の神の共同作業であり、「われわれ」の正体は、この三位一体の神なのでした。

この三位一体の神様は、愛によって一つです。キリストは「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」「わたしを見たものは、父を見たのです(14:9)」とおっしゃられました。そのようにしてキリストは徹底して、父の栄光を表しました。同様に聖霊なる神は、子なるキリストの栄光を表しています。キリストはこうおっしゃられました。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします(ヨハネ15:26)」。その他にも聖書には「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリ12:3)」ともあります。「創造」が三位一体の神の共同作業なら、「救い」もまた共同作業です。私たちは三位一体の神の愛に包まれ、この方によって再び新しく創造されるのです!

人格的な交わり(交流)をこよなく愛されるから、三位一体の神様なのです。そしてこの神様は、あなたとも人格的な交わりを築きたい、共に生きたいと願っておられます。また、そこに、私たちが創造された目的があるのです。そのことに気付く時、目の前に新しい人生が開けます!

だが、今、あなたを創造された主は、こう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。」(イザヤ43章1節 抜粋)

第6回 「聖書の神様~創造主~」 創世記1章、イザヤ46章

前回は「聖く、あわれみ深い神~」と題して学びました。これは、その前に学んだ、神様が「霊」であり、「ご人格」をもった方であるということとも深く結び付いています。つまり、この神様は「単なるエネルギー」とか「ご神体(神が宿るとされる物体)」とかではなく、今も生きて、私たち人間と、血の通った関係を築こうとされるお方なのです。また、それこそが、私たち人間か創られた(創造された)、目的でもあるのです。今回は、この創造について詳しく学びます。

「初めに、神が天と地を創造した」、これこそ、聖書の書き出しです。「初めに」を、ヘブル語では「ベレーシート」と言いますが、これは単なる時間のはじまりを意味するだけではなく「物事の起源」を意味する言葉です。つまり「神様は、この世界(宇宙)が誕生する前から存在しておられる、創り主であり、すべての根源なるお方である」という意味です(参照ヨハネ1:1)。そして、その神様が、一日目には「光と闇」、二日目には「大空」、三日目には「陸地・植物」、四日目には「太陽と月と星」、五日目には「空や海の動物」、六日目には「陸の動物、最後に人間」をそれぞれお創りになったと、聖書には書かれています。そして七日目に、神様は、休まれたとあります。

キリスト教信仰には幅があります。ある人は、この創世記をそのまま信じます。つまり、一日を文字通り24時間と信じ、神様が文字通り6日間で全てを創造されたと信じるのです。しかしある人々は、ちょっと違っています。一日の「日」は、ヘブル語で「ヨーム」といい、それは単に「時間的区切り」を表す言葉です。だから、必ずしもそれを24時間と理解する必要はなく、一億年だって、十億年だったいいと考えます。前者の人々は、進化論者と激しくぶつかります。アメリカでは公立学校で進化論を教えることに反対し、数多くの裁判も起こされています。しかし後者の場合は、進化論と矛盾しません。彼らは「進化論をあくまで、神様の創造の御業を、科学的に分析したものだ」ととらえるのです。これを「有神論(ゆうしんろん)的進化論」ともいいます。

大切なのは「意味」です。聖書の解釈に幅はありますが、違いを超えて、明らかな「真理」が二つあります。一つは「神様がこの世界をおつくりになった(1:1)」こと。そしてもう一つは、それらは本来「非常に良かった(1:31)」ことです。ヘブル語で創世記1章を読むと非常に興味深いことに気が付きます。それは、とことん「7」にこだわって書かれていること。1章1節は7つの単語で書かれ、1章全体は7区分に分けてまとめられています。「7」は聖書の「完全数」(そこからラッキーセブンという言葉が生まれた)。だから1章の最後には「それは非常に良かった」と記されているのです。一日が24時間か10億年かより、実はこちらの方が大切なことです。

自然に感動したことがありますか?私は大学生の時に、動物の遺伝について勉強をしていました。ですから、周りの友人たちも、生物学(進化論も含め)詳しい人ばかり。彼らは、冗談交わりに、よく私に言いました「今まで何を勉強してきたの?神が造ったって本当に信じているの(笑)?」しかし、ある日のこと、一緒に牛の解剖をしていた時のことです。その友人の一人が、目をキラキラさせて言うのです。「おい川村、やっぱり神はおるかもしれん!」私は今でも、その時の彼の顔を忘れることができまません。つまり、神を信じるか信じないかとは、言いかえれば、この世界(自然・宇宙)、しいては自分自身に、「偶然」以上の「必然」を見出すかどうかなのです。

もう少し簡単に説明しましょう。腕時計を見て、偶然に出来たと考える人がいるでしょうか?家を見て、自然にできたと考える人がいるでしょうか?いいえ、それを作った人(人格)がいると考えるのは当たり前のことです。また作られたものには、創った人の目的(願い)が込められているものです。私たち人間は、時計や家以上に素晴らしい存在です。それを創った方がいると考えるのはある意味当たり前であり、創られたからには、そこに目的があると考えるのは、当然のことではありませんか。ある人は、この創造を導いたお方を「サムシング・グレート」とか「インテリジェント・デザイナー」と呼びます。しかし聖書によれば、この方こそ「神(創造主)」なのです。

神様の創造の御業は本当に素晴らしい。罪によって、幾分くすんでいますが、その輝きは私たちの心に感動を与えます(このテーマはまた後日)。でも気をつけて。被造物を拝むのではなくて、その被造物を創られた方を礼拝するのです。私たちは、この創造主に愛されているのです!


初めに、神が天と地を創造した。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。
創世記1章1,31節

2011年9月10日土曜日

第5回 「聖書の神様~聖く、あわれみ深い神~」 詩篇103編、イザヤ6章

前回は「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」と題して学びました。その中で、聖書に記されている神様が、石や木に刻まれた神々ではなく「霊なるお方である(ヨハネ4:24)」と学びました。単に目に見えないという意味ではなくて、私たちの心の中までも知っておられ、全てを知った上で、私たちのことを愛しておられる、人格的な神様であることを表していました。今回の箇所も、それと関連していますが、今回は特に「聖(きよ)く」て「あわれみ深い」という、二つの観点から、神様のご性質(専門的な言葉で「属性(ぞくせい)」)に光を当てたいと思います。

まず神様は「聖(きよ)い」お方です(ヨハネ4:24)。「聖い」をヘブル語で「カドーシュ」と言います。それは、もともと「切り離す」とか「分離する」という意味ですが、この言葉が神様のご性質を表す言葉として用いられるようになりました。なぜか?それは聖書の神様が、人間とは根本的に「分離し」「切り離されている」「おそれ多いお方」であるからです。日本の神々は、とても人間的です。時には間違いも犯し、人間が神になったりもします。でも聖書の神様はそうではありません。聖書にこうあります。「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか(出エジ15:11)」。だから、イザヤは、この完全で、聖い主を見た時「あぁ私はもうだめだ」と言ったのです(6:5)。「神々(こうごう)しい」とでも言いましょうか。本来、この神様の光に照らされる時、すべての罪も闇も、私たちも、滅びて失せてしまうのです。

この聖い神様は「罪」を忌み嫌われます。ある人は分かりやすく「神様は罪に対してアレルギーを持っておられる」とも表現しました。罪に関しては、また詳しく学びますが、聖書にこうあります。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者(箴言6:16-19)」。こうした罪を嫌う神様の性質のことを「義(ぎ)」とも呼びます。前回学んだように、神様は全知全能なのですが、出来ないことが二つあります。一つは「罪」を犯すこと。それは、ご自身の性質に反すること(自分を偽ること)だからです。神様は、ご自分でさえも「偽ることのない神(テトス1:2)」なのです。つまり、神様にとって一番難しいことは、罪をうやむやにしたり、見なかったりすることです。

しかし、聖書の神様は「あわれみ深い神」でもあります。聖書にはこうあります。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる(詩篇103:8-13)」。もしかしたら、このことに関しては、先ほど紹介した神様の性質とは矛盾するように聞こえるかもしれません。実際この両者の間には、激しい葛藤が存在します。一方は、聖く、罪をとことん嫌われる神様。でも、もう一方では、罪ある私たちを、とことん愛し、赦したいと願われる神様…。

神様に出来ないもう一つのこと、それは「私たち人間を愛さないこと」です。聖い神様から見れば、私たちなんて、欠けだらけで、愚かで、ちりに等しい存在です。でも神様は、そんな私たちを、愛さずにはおられません!なぜか?それは神が愛だからです(1ヨハ4:16)!!愛とは、何でもホイホイ赦すような、いい加減なものではありません。聖い神様にとって、罪を赦すことは、最も苦しく、最も難しいことです。でも神様は、その深い葛藤を、文字通り血を流す苦しみをもって克服してくださいました。ここに神の愛があるのです。神の愛と神の義は、表裏一体なのです。

神様の「聖さ」と「あわれみ」、「義」と「愛」。この両者の深い葛藤に、ご自分を犠牲にして、橋を渡してくださった方がいます。それがイエス・キリストです。このことは、また改めて…。

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3章16節

第4回「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」 詩篇139編、イザヤ43章

前回は「聖書~神様からのラブレター~」と題して学びました。聖書にはカタカナが多く、難しいというイメージがありますが、ラブレターだと思って読むと少しワクワクします。ラブレターなのだから、読み方にも気を付けなければいけません。分析的になり過ぎず、相手が自分に何を伝えようとしているのか、そのメッセージに集中して読むことと、聖書の真の著者は神様なのだから「この聖書を通して私にも語りかけて下さい」と、祈り求めながら読むことなどが大切だと教えられました。そうして読む時、聖書の言葉が、生き生きと私たちの心にも語りかけてくるのです。そして今回はいよいよ、聖書に神様はどのように紹介されているのか、というテーマです。カミガミと呼ばれるものは数多くありますが、聖書の神様はいったいどんなお方なのでしょう?

聖書にはまず「神は霊である」と紹介されています(ヨハネ4:24)。分かりやすくいうと、形がないということです。形がない方を、木や石の像にしてはいけないと聖書にはあります。また霊であることは、場所や状況によらず、どこにでも(いつでも)存在されるということです(詩篇139:7)。私はこのことを海外で強く感じました。日本でも信仰をもっていましたが、遠く離れた海外でも同様に、祈りがきかれる体験を通し、この単純な真理に目が開かれました。また言葉も分からず、八方ふさがりで、もがき苦しんだ時もありましたが、神様はいつも近くにいて、勇気づけて下さいました。まさしく聖書にある通りです。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)」

また神様は、全知です。むかし森永製菓のCMには「だあれもいないとおもぉっていても、どこかでどこかでエンゼルは~♪」という曲が流れていました。きっと創業者の森永太一郎がクリスチャンであったことも影響しているでしょう。世の中では「人にバレなければいい」といった考え方もあります。でも、人にはバレなくても、神様は全てをご存知(全知)なのです。しかも私たちの心の中まで…。聖書にはこうあります。「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます(詩篇139:4)」。あなたがいま考えていること。心でひそかに願っていること。一人で行っていること。それらをスクリーンに映し出したらどうですか?恥ずかしくないですか?本当に大切なのは、人ではなく神様に見られているということです。

更に神様は全能です。聖書にはたくさんの奇跡が登場します。モーセがイスラエルの民をひきいて紅海を渡ったこと、エリヤが天から火を呼び下したこと。でもキリストが「神にはどんなことでもできます(マタ19:26)」と言われる場合、それは「神様には、人を、罪や、無気力や、目的のない人生から、救うことができる」という意味です。つまり一番の奇跡は、状況を変えることではなく、心(生き方)が変えられることなのです。しかも神様は無理やり人の心を変える(あやつる)ことはなさいません。ジム・キャリー主演の「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、そのことが面白おかしく描かれています。その映画の中で、ある男が神様から「全能の力」を授かります。でも彼には、愛する女性の心を無理やり自分に向けさせることだけはできないのです。

最後に「神が霊である」とは「人格」をもっておられるということです。人格とは「自分で自分を意識し、ものを考え、自分で決定し、行動する、生きた存在だ」という意味です。これは「愛する」ことにおいて必要不可欠な要素です。人格のないロボットと人間の間に「愛」は成立するでしょうか?人によってプログラムされた愛の告白にどれほど価値があるのでしょうか?いいえ、きっと嬉しくないでしょう。愛さないという選択肢がありながらも、愛するからこそ、愛には価値があるのです。神様は私たちのことを愛しておられます。聖書にこうあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」。神様に、私たちを愛さなければいけない義務があるでしょうか?私たち自身の内に、それほどの価値が備わっているのでしょうか?でも神様は、愛すると決意し、価値を認め、行動される(十字架を選ばれる)のです。

そして神様は、私たちにも人格を与え自発的な心で振りむいて欲しいと願われています。また自発的な心で新しい人生に漕ぎ出してほしいと願われています。神様は全能な方ですが、本当の意味で愛し愛される関係を築くためには、その力を控えられ、相手の決断にゆだねられるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ43章4節(抜粋)

第3回「聖書~神様からのラブレター~」 Ⅱテモテ3:14-17、Ⅰペテロ2:2-3

前回は「知られない神(お父さん)に」と題して学び、このように語りました。「心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?お父さんの愛が、心に響いてきます」。でも、どうしたら私たちは、このお父さんの声を聞くことができるのでしょうか?どうしたら、その豊かな愛を知ることができるのでしょうか?一言でいえば、それは「聖書(Bible)」を通してです。聖書は、ギネスにも認定された世界の隠れたベストセラーであり、現在も多くの人々の人生に決定的な影響を及ぼしている「本の中の本」です。(*国際聖書協会の発表によると、2000年の1年間に、約6億3300万冊が配布・販売)

そもそも聖書は「いつ」「誰が」書いたのでしょうか?聖書は大きく、旧約聖書(39巻)と新約聖書(27巻)に分けることができます。一番古い「創世記」は今から約3500年前に書かれ、一番新しい「黙示録」は約1900年前に書かれました。つまり創世記から黙示録まで全部書かれるのに、およそ5400年もの歳月を要していることになります。また書いた人は、当然一人ではなく、約40人の人々によって書かれています。この人々は、時代や場所、言語や教育も全く異なった人々で、預言者もいれば、王や学者もいるし、医者や漁師や税務署の職員など、本当に多種多様な人が関わっています。にもかかわらず、聖書には驚くほどの統一性があります。それは、聖書の「真の著者」が神様であるからです。もちろんそれは、神様が人を支配(manipulate)して、一方的に書かせたという意味ではなく、その人の性格や賜物を用いながらも、神様が導かれたという意味です。だから諸要因によるところの差はあるものの、メッセージにおいては一貫しているのです。

そのメッセージテーマとは何でしょう。それは「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること(Ⅱテモテ3:15)」です。聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があると言いましたが、「約」は、「約(promise)」であり「訳(translation)」ではありません。旧約聖書には、神様が与えられた戒め(律法)を守る者は祝福されるという「旧い契約」や、やがて救い主がお生まれになるという「約束」が記されています。また新約聖書には、「約束の成就」としてお生まれになったイエス・キリストと、このキリストを信じる者は誰でも救われるという「新しい契約」が記されています。もう少し分かりやすく言うと聖書には、①神様が私たちを愛しておられること。②でも私たちはその神様を裏切ってしまったこと。③にもかかわらず神様は私たちを愛し、驚くべき方法で救いの道を用意して下さったこと。④私たちはどうしたらその救いを受け取ることができるのか。⑤そして信じた者は、どのように生きていったらよいのか、などについて書かれています。この聖書は「神様からの愛」がギッシリ詰まっている「神様からのラブレター」なのです。

読み方に注意してください。17世紀の啓蒙(けいもう)主義以降、聖書は色々な方法で分析され、批判されてきました。すなわち、歴史的、文学的、科学的に「でたらめだ」とされたのです。18世紀フランスの無神論者ヴォルテールは「百年以内に聖書はこの世界から消える」と宣言しました。しかし聖書はなくなりませんでした。それどころか、ますます力強く世界中に広がり、多くの人々に生きる希望と勇気を与え続けているのです。聖書の目的は、私たちに「神の愛」を伝え、救い、豊かな人生に導くことです。ラブレターを科学的に分析して読みますか?そんなことをしたら、せっかくのラブレターが台無しです。聖書も同じです。神の愛を、科学のメスでズタズタに引き裂いてはいけません。科学的にでたらめだと認めているのではありません。例えば、千年前の人々に、今日のコンピューターやIT社会を想像することができたでしょうか?タイムマシンで遡り、いくら熱心に説明しても、彼ら自身の手で書き残す説明には限界があるしょう?ましてや、神様の創造の神秘や天国の素晴らしさについて、神様がどんなに人の心に語りかけても、言葉で書き残すのには限界があるのです。ラブレターの使命は、あくまで愛を伝えることです!

どうか批判的にならず、聖書の言葉を深く味わってみてください。本当か嘘か、分析しながら読むのではなく、神様がこの言葉(みことば)を通して、私に何を語ろうとしておられるのか、そのメッセージに意識を集中しながら読んで下さい。「神様、私にも語りかけて下さい」と祈りながら聖書を読むと、不思議なことがおこります。聖書が節妙なタイミングで、語りかけてくるのです。その不思議を体験したら、疑問なんてちっぽけなこと、もっと神様を知りたくなります。

生まれたばかりの乳飲み子のように、
純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、
主がいつくしみ深い方であることを
味わっているのです。Ⅰペテロ2章2-3節

2011年7月15日金曜日

第2回「知られない神(お父さん)に」 使徒17章16-31節

前回私たちは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます(マタイ7:7-8)」との聖書の言葉を聞きました。しかし同時に、「問題は、その大切なものが『何』であるのか、私たちには分からないと言うことです」とも聞きました。私たちは、知らないお方をどのようにして求めることができるのでしょうか?その問題について、パウロという初代教会の宣教者(使徒)は、アテネという町で次のように教えています。

その町にはたくさんの偶像がありました(16)。偶像とは、石や木でつくった神々のことです。アテネですから、ギリシャ神話に登場する神々の像がたくさんあったのでしょう。ある意味、日本と似た状況なのかもしれません。神道の神様は「八百万(やおよろず)の神」といわれますが、とにかく数が多いという意味です。今でも町の中には、たくさんの神々がまつられています。「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉もありますが、昔から日本人には、「何でもいいから熱心に拝み、それが心のよりどころになるんだったら良いじゃないか」という考えがあります。平成19年に文部科学省が行った「宗教統計(人口)調査」によると「神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる」そうです。今日の言葉を用いるなら、良く分からない「知られない神」を手当たり次第に拝んでいるということでしょうか。大らかなのは良いですが、少し厳しく言えば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということなのかもしれません。

しかしそれらを頭ごなしに否定してはいけません。ジャン・カルバンという宗教改革者は、すべての人の心の中には「宗教の種子が宿っている」と言いました(綱要Ⅰ3章)。またフランスの哲学者パスカルは「人の心には、神にしか埋めることのできない空洞がある」と言いました。そして聖書には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた(伝道者3:11)」ともあります。つまり、人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があり「それを求めるように造られている」のです。クリスチャンは、他宗教のすべてを否定するわけではありません。それらは、ある意味、人として当然の、宗教的行為なのです。私たちは「永遠」とか「神秘」を求めて、熱心に求道しておられる方々のことを、同じ信仰者として敬愛しています。それと同時に、愛すればこそ、その求めておられるものの正体が、いったい何(誰)であるかを、紹介したいと願っています。

人の心には、生まれながらにして「何らかの神の記憶」があると言いましたが、パウロはそのことを「私たちは神の子孫(29)」であると言っています。しかしその記憶はかなり古く、多くの部分はかなりあいまいです。例えば幼い時にお父さんと別れた子供に「お父さんの顔を思い出して描いてみましょう」といっても、かなり独創的なものになってしまうでしょう。同じように、私たちも神の子孫(こども)でありながら、お父さん(神様)の記憶をたどり、生みだす「宗教や哲学や思想」などは、どことなく似ているようで、かなり独創的なものにもなってしまっているのです。逆のことも言えます。世界中には様々な思想や宗教があるのですが、普遍的なものになればなるほど、驚くほど似ている部分もあるのです。それは元をたどれば、同じお父さんにたどり着くからです。私たちはみな、この大きな「神の中に生き、動き、また存在しているのです(28)」。

人生のある時期に「わたしがパパだよ」と言って突然本当のお父さんが現れたらどうしますか?驚き、怪しく思いますか?「今さら自分のイメージは変えられない」「私はこれが自分のお父さんだと信じてきました」と、自分が信じてきたものを握りしめるでしょうか?でも「もし」目の前の方が、あなたの本当のお父さんだったら、どう思うでしょうか。天のお父さんは、あなたに出会いたいと願っておられます。もちろん無理やり信じることはできません。私たちには選択する自由と責任があります。だからこそ、まず心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?あふれる愛が、あなたを待っています。

どうしたら、このお父さんの声を聞くことができるのでしょう。それは次回以降のお話し。でも今日から始められることもあります。それは「まだ知られない方(お父さん)」に心から祈ってみることです。「お父さん、あなたは本当に私のお父さんですか?私を愛してくれているのですか。あなたを知りたいです…。」

これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
使徒の働き17章27節

第1回「何をしてほしいのか」 マルコ10章35-45節

今日から信仰入門テキストを始めます。まだクリスチャンでない人は、多少なりともクリスチャンが何を信じているのかに興味があってこのテキストを読んでいることでしょう。またクリスチャンは、折に触れて自分の信仰を確認し、自分の信仰が自己流になっていないか確認する必要があります。そうする中で、今度は自分が初めての人に語る準備をするのです。第一回のテーマは「何をしてほしいのか」です。これはイエスの言葉であり、あなたに対する問いでもあります。

「あなたは、わたしに何をしてほしいのか」。多少の言葉の違いはありますが、今日の聖書の箇所には、ほぼ同じイエスの質問が二回繰り返されています(36,51)。これは明らかに対比されていますし、それだけ重要な問いであるということです。もしイエスが目の前に立って、同じ質問をされたら、あなたはどのように答えますか?お金でしょうか、成功でしょうか?家族の幸せでしょうか?問題の解決でしょうか?私たちの人生は、①私たちが何を望んでいるのか、②そして誰に望んでいるのか、によって決定づけられてきます。ある人は「私たちの顔(表情)は、私たちが礼拝しているもの(強く望んでいるもの)に似てくる」といいました。私たちが望んでいるもの、そして頼りにしている存在は、それだけ私たちの人生に大きな影響力をもっているのです。

二人の弟子ヤコブとヨハネは「権力」を望みました。いや他の10人の弟子たちもそれを聞いて腹を立てたとありますから、同じように「権力」が欲しかったのでしょう。そんな彼らにイエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていないのです(38)」。正確に言えば、彼らは「自分が誰に何を求めるべきか」「その求めているものが自分の人生にどのような影響を及ぼすのか」まったく分かっていないということです。その点において、この後バルテマイという盲人が登場しますが、実は弟子たちの方こそ「(心の)盲目」であったといえるでしょう。しかしイエスはそんな彼らをしかるでもなく、やさしくこう諭されました。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい(43)」。私たちの願いとイエスの答えは、必ずしも同じというわけではありません。

あなたは何を求めてこの学びを始めましたか?私たちはこの地上で色々なものを欲しがります。その欲望はとどまるところを知らず、ひとつの願望をかなえたら、すぐにまた次の願望が生まれます。それ自体が悪いわけではありませんが、本当に大事なことを忘れていないでしょうか?それを忘れ、他のものをいくら追い求めても、心は満たされないでしょう。逆に本当に大切なものを手に入れたのなら、他のものはわずかでも、心は平安なのです。問題は、その大切なものが「何」であるのか、生まれながらの私たちには分からないということです。あなたがこれから学ぼうとしていることは、もしかしたら、あなたが「今すぐ」知りたいと思っていることとは違う(ズレている)かもしれません。しかしそれでも諦めないで、ここに「何か」があると信じ、求め続けるなら、そこに人生の新しい境地(宝)が広がっているのです。宝捜しの人生はもう始まっています。

バルテマイは二つのことを叫びました。「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい!(48)」「先生、目が見えるようになることです(51)」。私たちも、バルテマイのように叫ぶことができたら、何と幸いでしょうか。バルテマイは上着を脱ぎ捨てて立ち上がりましたが、私たちも、何重にも着こんでいる上着(「プライド」や「欲望」、「今まで探しても見つからなかったという失望」など)を脱ぎ捨てて、子供のように叫ぼうではありませんか。「イエス様!私にはあなたが誰なのか分かりません。自分が本当に何を求めるべきなのかもよく分かりません。私をあわれんでください。心の目が見えるようになって、本当に大切なものが『何』であるかを知ることができますように」。

あなたが求め始める時、内から外から「止めさせようとする力」も働くものです。でも、その力に負けてはいけません。バルテマイは、大勢からたしなめられましたが、ますます大声で「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい」と叫びました。あなたも諦めずに叫び、捜し、求め続けるなら、きっと答えが見つかります!

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
マタイ7章7-8節