2012年5月31日木曜日

第25回 「教会 ―その使命―」 マタイ28章、コロサイ1章

前回私たちは「教会~キリストのからだ~」と題して学びました。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1:23)」。まさしく教会は、イエス様の十字架によって打ち建てられた、この世の希望です。そしてその希望の光は、聖霊の働きと、イエス様によって変えられた一人一人を通して、全世界に広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。それと同時に、福音は決して自動的に広がっているわけではありません。そこには、そのために献身し、働いている人々がいるのです。今日は、そのことを学びましょう。

イエス様は、この世を去り、天に帰られる前、私たちに大切な使命(宿題)を残して行かれました。それは次の言葉で、大宣教命令とも呼ばれます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:18-20)」。使命は「あらゆる国の人々を弟子とすること」、その具体的な内容は「バプテスマ(洗礼)を授け、聖書を教育すること」です。またイエス様は使命を与えるだけでなく、それに必要な「助け」も与えてくださると約束されました。すなわち、いっさいの権威を与えられているイエス様が、世の終わりまでいつも私たちとともにいて、力と慰めと励ましを与えてくださるのです。その約束は、聖霊によって成就しました。 

その聖霊については、こう約束されました。「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(使徒1:8)」。ここに「サマリヤ」と言われていることに注目したいと思います。イエス様の時代、「南のユダヤ人」と「北のサマリヤ人」が激しく対立していました(ガリラヤは最も北にありましたがヘロデ大王の時代にユダヤ化されており、ユダヤ人としての強いアイデンティティーを持っていました)。その詳しい歴史的な背景は省きますが、イエス様は、弟子たちが聖霊を受ける時、彼らが忌み嫌っていた、サマリヤ人や異邦人にも、福音を宣べ伝えるようになると預言されたのです。それは「福音を宣べ伝える」ことが、ただ単に「教義(教え)を伝える」ことだけではなく、実際に福音を伝える相手と「和解する」ことも含むということです。そして彼らとともに、ひとつの民、ひとつの家族、ひとつのからだ(教会の一員)とされ、愛し合い、赦し合い、仕え合う中で、ともに新しい世界(神の国)を広げていくのです(エペソ2:14)。 

宣教は、教会に与えられた使命であるとともに、そこに属する一人一人に与えられている使命です。パウロはそれをこのように表現しています。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロ1:14)」。「キリストの苦しみの欠けた所を満たす」とは、イエス様の十字架の苦しみが不十分だったという意味ではありません。そうではなくて、十字架の福音を宣べ伝える時に味わう苦しみを、自分の身をもって満たして行くということなのです。宣べ伝えるのは、犠牲を伴います。ののしられたり、拒絶されたり、ドン引きされたり…、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし恵みによって救われた者として、その苦しにも預かる者となったことを喜ぶのです。そして自分の身をもって福音を宣べ伝え、キリストのからだである教会の欠けを、積極的に補っていくのです。 

あなたは福音を宣べ伝えていますか?それは十字架の福音を一方的に(機械的に)語ることではありません。もっとも苦手な人にも仕え、和解の努力をする中で、自分の身をもってイエス様の愛を語る(体現する)ことです。またあなたは恵みによって救われた者として、積極的にキリストのからだの欠けを満たしていますか?欠けを見つけたら、指摘するのではなく、自分の身をもって満たすのがキリスト者のあるべき姿です。そうして一つのチームとなって宣教するのです。 



ですから、私は、
あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、
私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを
満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。

私は、あなたがたのために
神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。

(コロサイ1:24-25)





2012年5月24日木曜日

第24回 「教会 ―キリストのからだ―」 エペソ1章、ヨハネ15章

前回私たちは「信仰と、良い行いと、聖霊の働き」について学びました。まずは、ただ信仰によってのみ救われることを学びました。あるひとは心配します。「そんな都合の良い教えがあったら、人はますます罪深くなるのではないだろうか?」。でもそんなスケールの小さな「信仰」を持たないで欲しいのです。その人がもし本当に、自分の罪を悔い改めて、主に立ち返り、インマヌエルの主とともに歩む人生を始めるなら、主は「良い行い」をも予め備えて下さっているのです。私たちは、すべて自分で背負い込む、辛く孤独な人生から、主とともに歩む光の人生へと入れられたのです。そして一瞬一瞬を、まるで呼吸するかのように、聖霊なる神と対話し、導かれて行く道を歩んでいるのです。(求道者の方がいたら、ぜひここで、イエス様を心に受け入れる祈りを、教会の先生と共にささげてください「四つの法則」)。また変えられた私たちには、もう一つ重要なことがあります。それは「教会に連なる」ということ。どうして教会に連なる必要があるのでしょうか?神様を信じ、イエス様の十字架と復活を知れば十分なのではないでしょうか?

まず知らなければいけないのは、教会はキリストのからだだということです。聖書にはこうあります。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1:23)」。すごい教えではないでしょうか?よくこう言う人がいます。「神様は大好きだけど、教会は好きじゃない」。確かに教会は、完璧な人の集まりではありません。色々な欠けもあります。でもイエス様は、その教会を「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものと(5:27)」するためにご自分を捧げて下さり、驚くべきことに、その教会を指して「これこそ私のからだだ!」と仰っておられるのです。もしあなたに大切な人がいて、こう言ったらどうでしょう。「あなたのことは好きだけど、あなたのからだ(存在)はいらない。必要な時に励ましのメールだけください」。それが本当の愛でしょうか?いいえ自己中心です。本当の愛とは、からだ(存在)も含めてすべてを受け入れ、愛することです。つまり、私たちがもしも本当に、イエス様を愛するなら、当然そのからだである教会も愛するのです。 

属することの重要性を、イエス様はこうおっしゃられました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません(ヨハネ15:4)」。これは、イエス様と、その戒め(教え)に留まることを意味しています。その戒めにはこうあります。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです(17)」。となると、これは教会に連なることも意味しています。イエス様の愛は、遠くから眺めていて分かるものではありません。実際に主を信じる人々の中に入って行き、兄弟姉妹と呼ばれる互いに属する関係を築き、真剣に向き合い、イエス様の愛を実践する中で、聖書の意味が心に迫ってくるのです。教会は楽しいところです。そこには世代を超えた豊かな交わりがあります。しかし時には、争いがあったり、残念な気持ちになったりすることもあるのかもしれません。でもそのただ中で、私たちは、本当の意味で人を愛し、赦す、十字架を学ぶのです。

また教会は、世界再創造の最重要拠点でもあります。神様は、地上の教会を通して偉大な計画をお持ちです。それは「天にあるもの地にあるものが、この方(キリスト)にあって一つに集められ(新しく再創造され)るのです(エペソ1:10)」。教会はその計画の拠点です。目に見える教会は小さくても、じつは偉大な権威が与えられています(「ハデスの門も打ち勝てません」マタイ16:18)。罪よって破壊されたエデンの園とその平和。神との絆も、隣人との絆も壊れていまいました。しかしイエス様はその暗闇に、十字架という思いもよらない方法によって希望の光を投げかけられました。そして、イエス様の復活を信じ、そのいのちに預かった人々を通して、神を愛し、隣人を愛する「まったく新しい愛の共同体(神の国・平和)」が形成され、押し広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。 

あなたが教会の一員とされたことには「神様の偉大な計画」があります。それはあなたと、あなたの教会を通して、全世界に神の国が広げられること。あなたはそのために選ばれたのです!



あなたがたがわたしを選んだのではありません。

わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネ15章16節




2012年5月17日木曜日

第23回 「信仰と、良い行いと、御霊の働き」 エペソ2章、ガラテヤ5章

前回私たちは「聖霊の働き」について学びました。弟子たちは、イエス様が天に昇って行かれる直前まで「主よ、今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか(使徒1:6)」と的外れな信仰をもっていました。そんな彼らが本当の意味で変えられ、大胆にイエス様の復活を証ししはじめたのは聖霊を注がれてからでした(使徒2章)。この聖霊について、イエス様はかつてこう説明されました。「助け主が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます(ヨハネ16:8)」。事実、聖霊に満たされたペテロのメッセージを聞いた群衆はこう言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。それに対してペテロは言いました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(2:38)」。別な箇所ではこんな言葉もあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(16:31)」。でも本当にそれだけで(悔い改めたり、信じたりするだけで)よいのでしょうか?それで救われるのでしょうか?

そうなのです!今回お伝えしたいのは、救いが「神様からの一方的なプレゼント」であることです。聖書にはこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ2:8-9)」。ここに「信仰によって救われたのです」とありますが、その信仰さえ、厳密に言えば聖霊の導きによって与えられたので、まさしくすべてが神様からの一方的なプレゼントなのです。もちろん自分でも聖書を読み、神様を知りたいと強く願い、祈り、主体的に求めることは大切です。でもそういう努力や行いによって救われるわけではありません。もしそうであれば、私たちは、自分自身を神のようにする(神様を不要とする)、アダムとエバと同じ罪を犯してしまうのです。むしろ私たちは、そのような生き方を止め、神様とともに歩む者となることを望まれているのです。イエス様が十字架上で全てを整えて下さいました。あと私たちに出来ることは、それを素直に受け取ること(イエス様が私たちの罪のために十字架かかり、死に、三日目によみがえられたことを、素直に信じること)だけなのです。 

こんなに単純なことが、意外と難しいのです。資本主義の中にどっぷりとつかっている私たちにとって、無償で何かいただける(価なしに罪を赦される)ということが、ある意味、一番理解しにくいのです。ある人は、こう心配するかもしれません。「そんな都合のよい話しがあったら、人はもっと悪いことを平気でしてしまうのではないでしょうか?」。しかし先程の御言葉には続きがあります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2:10)」。つまり、その人が本当に聖霊によって自分の罪を示され、自己中心な生き方を捨て、神により頼む者とされたのなら、「良い行い」もまた、神様によって「あらかじめ備えられている」と。イエス様は、もっと分かりやすくこう言われました。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです(マタイ7:20)」。またヤコブの手紙には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」ともあります。こういうと、かえってプレッシャーでしょうか? 

でも自分が頑張って、出来れば傲慢になり、できなければ卑屈になる、そんなことではないのです。そういう生き方は先ほども言ったように「罪」です。そういう生き方を離れるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。なのに、その生き方に戻ってはいけないのです。私たちは「御霊によって歩む人生」に入れられました(ガラ5:25)。聖書にはこうあります。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉(の努力)によって完成されるというのですか(3:3)」。御霊によって歩むとは、御霊の悲しまれることや喜ばれることを意識しながら、御霊とともに生きることです。御言葉を正しく読むことは大切。でももっと生き生きと、呼吸するかのように御霊と対話しながら、一瞬一瞬をこの方とともに生きることなのです。 

あなたはまだ自分で自分を救おうとしていませんか?それで息苦しくなっていませんか?そこから出て、神様とともに歩む人生を始めてみませんか?御霊のいのちがあなたを変えるのです!



あなたがたは、恵みのゆえに、
信仰によって救われたのです。
れは、自分自身から出たことではなく、
神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2章8-10節



もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。

ガラテヤ5章25節




2012年5月10日木曜日

第22回 「聖霊の働き」 使徒1-2章

前回まで私たちは三回に分けて、イエス様の復活について学んできました。まずは復活の「史実」について、続いて「新生(新しい創造)」と私たちの人生にとっての意味について、そして「復活のイエスに出会ったパウロの生涯」について。このようにイエス様は復活されましたが、いつまでもこの地上におられたわけではありません。十字架にかかられてから40日間、多くの人々に現れ、神の国のことを語り、ご自分が生きておられることを示されましたが、最後にこう言われて、彼らの見ておられる前で天に昇って行かれました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです(スト1:4-5)」。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(8)」。それが実現するのは、それから10日後のことでした。

五旬節の日(十字架から数えて50日目)皆がひとつに集まっていた時のことです。突然、激しい風が吹いて来て、驚いたことに、炎のような分かれた舌(のようなもの)が一人一人の上に留まったのです。すると、皆が聖霊に満たされて、聖霊が話させて下さる通りに、他国の言葉で話し始めました(2:1-4)。そして大通りに出て行って「ナザレ人イエスをあなた方は十字架につけて殺しましたが、このイエスこそ、預言されたキリスト(救い主)でした。父なる神はイエスをよみがえらせました。私たちはそのことの証人です(14-36)。あなたがたは、この主ともキリストともされたイエスを十字架につけたのです!」と力強く証ししました。これは考えてもみれば驚くべき変化でした。彼らは十字架直後、自分たちも迫害されないかと恐れ、家の中に閉じこもっていました。でも、復活の主にお会いして、聖霊に満たされて、まさに生まれ変わった(新しく創造された)者として、大胆にイエス・キリストを証ししているのです。単なる知識だけでも、単なる体験だけでもなく、聖霊によって「いのち」が与えられた結果、彼らは変えられたのです。 

そのメッセージを聞いた人々にも変化が現れました。彼らは心を刺され、こう応答しました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。それに対してペテロは言いました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」。そして実際に、その日の内に3000人が洗礼を受けました(37-42)。しかもそれだけではありません。彼らの生活も変えられました。彼らは「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて分配し、毎日心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた」のです。そんな彼らの姿を見て、人々は好意を抱き、救われる人々が毎日起こされ、仲間に加えられていきました(43-47)。思い出して下さい。「神なんかいらない」と、神様のおきてを破り、自分が神のようになり、神様との絆も、隣人との絆も失ってしまった人間…。その平和(神の国)が今ここに再創造され始めているのです。イエス様は、十字架の上で「一粒の麦(ヨハネ2:24)」となってくださいました。その一粒のいのちが、すさまじい勢いで広がり始めているのです! 

聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます!この聖霊の働きについて、エリクソンはこう書いています。「普通私たちは、父なる神様を、はるか遠くの天国におられる方だと感じています。同じようにイエス様のことも、はるか昔におられ、この地上からはすでに取り去られた方だと感じています。しかし三位一体の神である聖霊は、その距離を縮めます。聖霊は私たちの生活のただ中で、私たちの心に直接に働きかけます。現代は聖霊の時代です。神様は目に見えません。しかし私たちはこの聖霊の働きを通して、神様の臨在を身近に感じ、キリストと共に生活することができるようになるのです(「キリスト教神学」第41章、聖霊の教理の重要性、意訳)」。つまり、この聖霊の働きによって、私たちは本当の意味で変えられ、本当の意味で神を知り、愛し、従う者とされるのです。私たちが信仰に至るのは、ただこの聖霊の働きを通してのみです。

あなたの中で「分からないあなぁ」と感じていることはありませんか?また、変わりたいのに、変われないなぁと思っていることはありませんか?もしそうなら、聖霊に助けを求めましょう。 

御霊も同じようにして、
弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
(ローマ8:26)