2012年6月7日木曜日

第26回 「神の国(平和)の完成」 ヨハネ14章 黙示録21-22章

前回私たちは「教会~その使命~」と題して学びました。その使命とは、大宣教命令に集約される「福音を宣べ伝えること」です。それはただ単に、言葉で宣べ伝えればよいというものではなく、実際に相手と和解し、生きた絆を結び、ひとつの民・家族・兄弟姉妹とされて、教会(キリストのからだ)を建て上げていくということまでを含んでいます。しかしそこには、もう一つの重大な意味があります。それは、私たちが福音を宣べ伝えることによって「イエス様の再臨(イエス様が再びこの世に来られること)」が早められているということです。その日がいつなのかは誰にもわかりません。しかし聖書にはこうあります。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます(マタイ24:14)」。今日の情報網の発達により、その時は急速に近づいているのかもしれません。クリスチャンは「アーメン。主イエスよ、来て下さい」と祈り求めます。「その日」いったい何が起こるのでしょうか?

新しいエルサレムが、天から下って来る(黙示録21:2)!?今私たちがいる世界は、三位一体の神様によって創造されました(創世記1:1)。しかしこの世界に、罪が入ってきたことにより、秩序が失われ、闇が地を覆いました。そこに世の光であるイエス様がお生まれになり、十字架にかかり「神の国」を打ち建てられました。そして使徒たちは、その神の国を世界中に広げ、私たちも全世界に福音を述べ伝えようと奮闘しています。そのイエス様が始められた「神の国」は、やがてイエス様がもう一度来られる時に完成します!その時「新しいエルサレム」に象徴される「天の御国」が天から下って来て、地上にある「神の国」とひとつにされ、そこに「まったく新しい天と、新しい地(完全な平和)」が生まれるのです!以前お話ししたエペソ1章9、10節にはこうありました。「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それはこの方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」。またその時、イエス様の声が響きます。「見よ、わたしはすべてを新しくする(5)」「ことは成就した、わたしはアルファでありオメガである(6)」。(参照:讃美歌21:362「ここも神の御国なれば」) 

その新天新地はどんな所なのでしょうか?中央には「いのちの水の川」が流れており、その両岸には「いのちの木」が生えています(黙示録22:1-2)。そして人は、いのちの木の実をとって食べる権利を与えられています(14)。何かを思い出しませんか?エデンの園です!アダムとエバが罪を犯した時、神様は、彼らがもう、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように、エデンの園から追放し、ケルビムの輪で封印をしました(創世記3:22)。しかしイエス様の再臨と共に、エデンの園の封印が解かれ、永遠のいのちが回復されているのです。また、こうとも言われています。「見よ。(中略)神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである(創世記21:3-4)」。 

そこに、私たちも入れられるのです。その条件について黙示録にはこうあります。「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです(7:14)」。つまりイエス様の十字架の血で、罪で汚れた心を聖くされていることなのです。私たちは、やがて誰しも、地上での歩みを終えます。その日は突然にやってくるかもしれません。死が「無」の始まりではなく、「永遠」への入口であるなら、私たちは良き備えをしなければなりません。いや、それこそが、この地上で生きている間の、最も大事な仕事であるとも言えます。ある人は「死んでから、イエス様の再臨まで、私たちの魂はどこにあるのでしょう」と心配します。パラダイスやハデスが、その中間状態だと説明する人もあります。でも肉体を離れた魂は、時間から解放されているのではないでしょうか?ですから、もし今日、何かがあったとしても、備えができているなら、私たちはすぐに天の御国に移されるのです! 

あなたの備えは大丈夫ですか?死後のことをしっかり考え、望みを持って生きることは現実逃避ではありません。そこのことについて考えないのが現実逃避です。またこの望みは、今を生きる私たちの力となります。この世にあっては報われないこともあります。でもイエス様が「目の涙を拭いとってくださる」ことを信じる時、その希望が「それでも愛する力」に変えられるのです。



これらのことをあかしする方がこう言われる。
「しかり。わたしはすぐに来る。」
アーメン。主イエスよ、来てください。
黙示録22章20節




2012年5月31日木曜日

第25回 「教会 ―その使命―」 マタイ28章、コロサイ1章

前回私たちは「教会~キリストのからだ~」と題して学びました。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1:23)」。まさしく教会は、イエス様の十字架によって打ち建てられた、この世の希望です。そしてその希望の光は、聖霊の働きと、イエス様によって変えられた一人一人を通して、全世界に広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。それと同時に、福音は決して自動的に広がっているわけではありません。そこには、そのために献身し、働いている人々がいるのです。今日は、そのことを学びましょう。

イエス様は、この世を去り、天に帰られる前、私たちに大切な使命(宿題)を残して行かれました。それは次の言葉で、大宣教命令とも呼ばれます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:18-20)」。使命は「あらゆる国の人々を弟子とすること」、その具体的な内容は「バプテスマ(洗礼)を授け、聖書を教育すること」です。またイエス様は使命を与えるだけでなく、それに必要な「助け」も与えてくださると約束されました。すなわち、いっさいの権威を与えられているイエス様が、世の終わりまでいつも私たちとともにいて、力と慰めと励ましを与えてくださるのです。その約束は、聖霊によって成就しました。 

その聖霊については、こう約束されました。「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(使徒1:8)」。ここに「サマリヤ」と言われていることに注目したいと思います。イエス様の時代、「南のユダヤ人」と「北のサマリヤ人」が激しく対立していました(ガリラヤは最も北にありましたがヘロデ大王の時代にユダヤ化されており、ユダヤ人としての強いアイデンティティーを持っていました)。その詳しい歴史的な背景は省きますが、イエス様は、弟子たちが聖霊を受ける時、彼らが忌み嫌っていた、サマリヤ人や異邦人にも、福音を宣べ伝えるようになると預言されたのです。それは「福音を宣べ伝える」ことが、ただ単に「教義(教え)を伝える」ことだけではなく、実際に福音を伝える相手と「和解する」ことも含むということです。そして彼らとともに、ひとつの民、ひとつの家族、ひとつのからだ(教会の一員)とされ、愛し合い、赦し合い、仕え合う中で、ともに新しい世界(神の国)を広げていくのです(エペソ2:14)。 

宣教は、教会に与えられた使命であるとともに、そこに属する一人一人に与えられている使命です。パウロはそれをこのように表現しています。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロ1:14)」。「キリストの苦しみの欠けた所を満たす」とは、イエス様の十字架の苦しみが不十分だったという意味ではありません。そうではなくて、十字架の福音を宣べ伝える時に味わう苦しみを、自分の身をもって満たして行くということなのです。宣べ伝えるのは、犠牲を伴います。ののしられたり、拒絶されたり、ドン引きされたり…、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし恵みによって救われた者として、その苦しにも預かる者となったことを喜ぶのです。そして自分の身をもって福音を宣べ伝え、キリストのからだである教会の欠けを、積極的に補っていくのです。 

あなたは福音を宣べ伝えていますか?それは十字架の福音を一方的に(機械的に)語ることではありません。もっとも苦手な人にも仕え、和解の努力をする中で、自分の身をもってイエス様の愛を語る(体現する)ことです。またあなたは恵みによって救われた者として、積極的にキリストのからだの欠けを満たしていますか?欠けを見つけたら、指摘するのではなく、自分の身をもって満たすのがキリスト者のあるべき姿です。そうして一つのチームとなって宣教するのです。 



ですから、私は、
あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、
私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを
満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。

私は、あなたがたのために
神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。

(コロサイ1:24-25)





2012年5月24日木曜日

第24回 「教会 ―キリストのからだ―」 エペソ1章、ヨハネ15章

前回私たちは「信仰と、良い行いと、聖霊の働き」について学びました。まずは、ただ信仰によってのみ救われることを学びました。あるひとは心配します。「そんな都合の良い教えがあったら、人はますます罪深くなるのではないだろうか?」。でもそんなスケールの小さな「信仰」を持たないで欲しいのです。その人がもし本当に、自分の罪を悔い改めて、主に立ち返り、インマヌエルの主とともに歩む人生を始めるなら、主は「良い行い」をも予め備えて下さっているのです。私たちは、すべて自分で背負い込む、辛く孤独な人生から、主とともに歩む光の人生へと入れられたのです。そして一瞬一瞬を、まるで呼吸するかのように、聖霊なる神と対話し、導かれて行く道を歩んでいるのです。(求道者の方がいたら、ぜひここで、イエス様を心に受け入れる祈りを、教会の先生と共にささげてください「四つの法則」)。また変えられた私たちには、もう一つ重要なことがあります。それは「教会に連なる」ということ。どうして教会に連なる必要があるのでしょうか?神様を信じ、イエス様の十字架と復活を知れば十分なのではないでしょうか?

まず知らなければいけないのは、教会はキリストのからだだということです。聖書にはこうあります。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1:23)」。すごい教えではないでしょうか?よくこう言う人がいます。「神様は大好きだけど、教会は好きじゃない」。確かに教会は、完璧な人の集まりではありません。色々な欠けもあります。でもイエス様は、その教会を「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものと(5:27)」するためにご自分を捧げて下さり、驚くべきことに、その教会を指して「これこそ私のからだだ!」と仰っておられるのです。もしあなたに大切な人がいて、こう言ったらどうでしょう。「あなたのことは好きだけど、あなたのからだ(存在)はいらない。必要な時に励ましのメールだけください」。それが本当の愛でしょうか?いいえ自己中心です。本当の愛とは、からだ(存在)も含めてすべてを受け入れ、愛することです。つまり、私たちがもしも本当に、イエス様を愛するなら、当然そのからだである教会も愛するのです。 

属することの重要性を、イエス様はこうおっしゃられました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません(ヨハネ15:4)」。これは、イエス様と、その戒め(教え)に留まることを意味しています。その戒めにはこうあります。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです(17)」。となると、これは教会に連なることも意味しています。イエス様の愛は、遠くから眺めていて分かるものではありません。実際に主を信じる人々の中に入って行き、兄弟姉妹と呼ばれる互いに属する関係を築き、真剣に向き合い、イエス様の愛を実践する中で、聖書の意味が心に迫ってくるのです。教会は楽しいところです。そこには世代を超えた豊かな交わりがあります。しかし時には、争いがあったり、残念な気持ちになったりすることもあるのかもしれません。でもそのただ中で、私たちは、本当の意味で人を愛し、赦す、十字架を学ぶのです。

また教会は、世界再創造の最重要拠点でもあります。神様は、地上の教会を通して偉大な計画をお持ちです。それは「天にあるもの地にあるものが、この方(キリスト)にあって一つに集められ(新しく再創造され)るのです(エペソ1:10)」。教会はその計画の拠点です。目に見える教会は小さくても、じつは偉大な権威が与えられています(「ハデスの門も打ち勝てません」マタイ16:18)。罪よって破壊されたエデンの園とその平和。神との絆も、隣人との絆も壊れていまいました。しかしイエス様はその暗闇に、十字架という思いもよらない方法によって希望の光を投げかけられました。そして、イエス様の復活を信じ、そのいのちに預かった人々を通して、神を愛し、隣人を愛する「まったく新しい愛の共同体(神の国・平和)」が形成され、押し広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。 

あなたが教会の一員とされたことには「神様の偉大な計画」があります。それはあなたと、あなたの教会を通して、全世界に神の国が広げられること。あなたはそのために選ばれたのです!



あなたがたがわたしを選んだのではありません。

わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネ15章16節




2012年5月17日木曜日

第23回 「信仰と、良い行いと、御霊の働き」 エペソ2章、ガラテヤ5章

前回私たちは「聖霊の働き」について学びました。弟子たちは、イエス様が天に昇って行かれる直前まで「主よ、今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか(使徒1:6)」と的外れな信仰をもっていました。そんな彼らが本当の意味で変えられ、大胆にイエス様の復活を証ししはじめたのは聖霊を注がれてからでした(使徒2章)。この聖霊について、イエス様はかつてこう説明されました。「助け主が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます(ヨハネ16:8)」。事実、聖霊に満たされたペテロのメッセージを聞いた群衆はこう言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。それに対してペテロは言いました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(2:38)」。別な箇所ではこんな言葉もあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(16:31)」。でも本当にそれだけで(悔い改めたり、信じたりするだけで)よいのでしょうか?それで救われるのでしょうか?

そうなのです!今回お伝えしたいのは、救いが「神様からの一方的なプレゼント」であることです。聖書にはこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ2:8-9)」。ここに「信仰によって救われたのです」とありますが、その信仰さえ、厳密に言えば聖霊の導きによって与えられたので、まさしくすべてが神様からの一方的なプレゼントなのです。もちろん自分でも聖書を読み、神様を知りたいと強く願い、祈り、主体的に求めることは大切です。でもそういう努力や行いによって救われるわけではありません。もしそうであれば、私たちは、自分自身を神のようにする(神様を不要とする)、アダムとエバと同じ罪を犯してしまうのです。むしろ私たちは、そのような生き方を止め、神様とともに歩む者となることを望まれているのです。イエス様が十字架上で全てを整えて下さいました。あと私たちに出来ることは、それを素直に受け取ること(イエス様が私たちの罪のために十字架かかり、死に、三日目によみがえられたことを、素直に信じること)だけなのです。 

こんなに単純なことが、意外と難しいのです。資本主義の中にどっぷりとつかっている私たちにとって、無償で何かいただける(価なしに罪を赦される)ということが、ある意味、一番理解しにくいのです。ある人は、こう心配するかもしれません。「そんな都合のよい話しがあったら、人はもっと悪いことを平気でしてしまうのではないでしょうか?」。しかし先程の御言葉には続きがあります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2:10)」。つまり、その人が本当に聖霊によって自分の罪を示され、自己中心な生き方を捨て、神により頼む者とされたのなら、「良い行い」もまた、神様によって「あらかじめ備えられている」と。イエス様は、もっと分かりやすくこう言われました。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです(マタイ7:20)」。またヤコブの手紙には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」ともあります。こういうと、かえってプレッシャーでしょうか? 

でも自分が頑張って、出来れば傲慢になり、できなければ卑屈になる、そんなことではないのです。そういう生き方は先ほども言ったように「罪」です。そういう生き方を離れるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。なのに、その生き方に戻ってはいけないのです。私たちは「御霊によって歩む人生」に入れられました(ガラ5:25)。聖書にはこうあります。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉(の努力)によって完成されるというのですか(3:3)」。御霊によって歩むとは、御霊の悲しまれることや喜ばれることを意識しながら、御霊とともに生きることです。御言葉を正しく読むことは大切。でももっと生き生きと、呼吸するかのように御霊と対話しながら、一瞬一瞬をこの方とともに生きることなのです。 

あなたはまだ自分で自分を救おうとしていませんか?それで息苦しくなっていませんか?そこから出て、神様とともに歩む人生を始めてみませんか?御霊のいのちがあなたを変えるのです!



あなたがたは、恵みのゆえに、
信仰によって救われたのです。
れは、自分自身から出たことではなく、
神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2章8-10節



もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。

ガラテヤ5章25節




2012年5月10日木曜日

第22回 「聖霊の働き」 使徒1-2章

前回まで私たちは三回に分けて、イエス様の復活について学んできました。まずは復活の「史実」について、続いて「新生(新しい創造)」と私たちの人生にとっての意味について、そして「復活のイエスに出会ったパウロの生涯」について。このようにイエス様は復活されましたが、いつまでもこの地上におられたわけではありません。十字架にかかられてから40日間、多くの人々に現れ、神の国のことを語り、ご自分が生きておられることを示されましたが、最後にこう言われて、彼らの見ておられる前で天に昇って行かれました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです(スト1:4-5)」。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(8)」。それが実現するのは、それから10日後のことでした。

五旬節の日(十字架から数えて50日目)皆がひとつに集まっていた時のことです。突然、激しい風が吹いて来て、驚いたことに、炎のような分かれた舌(のようなもの)が一人一人の上に留まったのです。すると、皆が聖霊に満たされて、聖霊が話させて下さる通りに、他国の言葉で話し始めました(2:1-4)。そして大通りに出て行って「ナザレ人イエスをあなた方は十字架につけて殺しましたが、このイエスこそ、預言されたキリスト(救い主)でした。父なる神はイエスをよみがえらせました。私たちはそのことの証人です(14-36)。あなたがたは、この主ともキリストともされたイエスを十字架につけたのです!」と力強く証ししました。これは考えてもみれば驚くべき変化でした。彼らは十字架直後、自分たちも迫害されないかと恐れ、家の中に閉じこもっていました。でも、復活の主にお会いして、聖霊に満たされて、まさに生まれ変わった(新しく創造された)者として、大胆にイエス・キリストを証ししているのです。単なる知識だけでも、単なる体験だけでもなく、聖霊によって「いのち」が与えられた結果、彼らは変えられたのです。 

そのメッセージを聞いた人々にも変化が現れました。彼らは心を刺され、こう応答しました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。それに対してペテロは言いました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」。そして実際に、その日の内に3000人が洗礼を受けました(37-42)。しかもそれだけではありません。彼らの生活も変えられました。彼らは「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて分配し、毎日心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた」のです。そんな彼らの姿を見て、人々は好意を抱き、救われる人々が毎日起こされ、仲間に加えられていきました(43-47)。思い出して下さい。「神なんかいらない」と、神様のおきてを破り、自分が神のようになり、神様との絆も、隣人との絆も失ってしまった人間…。その平和(神の国)が今ここに再創造され始めているのです。イエス様は、十字架の上で「一粒の麦(ヨハネ2:24)」となってくださいました。その一粒のいのちが、すさまじい勢いで広がり始めているのです! 

聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます!この聖霊の働きについて、エリクソンはこう書いています。「普通私たちは、父なる神様を、はるか遠くの天国におられる方だと感じています。同じようにイエス様のことも、はるか昔におられ、この地上からはすでに取り去られた方だと感じています。しかし三位一体の神である聖霊は、その距離を縮めます。聖霊は私たちの生活のただ中で、私たちの心に直接に働きかけます。現代は聖霊の時代です。神様は目に見えません。しかし私たちはこの聖霊の働きを通して、神様の臨在を身近に感じ、キリストと共に生活することができるようになるのです(「キリスト教神学」第41章、聖霊の教理の重要性、意訳)」。つまり、この聖霊の働きによって、私たちは本当の意味で変えられ、本当の意味で神を知り、愛し、従う者とされるのです。私たちが信仰に至るのは、ただこの聖霊の働きを通してのみです。

あなたの中で「分からないあなぁ」と感じていることはありませんか?また、変わりたいのに、変われないなぁと思っていることはありませんか?もしそうなら、聖霊に助けを求めましょう。 

御霊も同じようにして、
弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
(ローマ8:26)



2012年4月26日木曜日

第21回 「イエスの生涯―復活③」 使徒9章 Ⅰコリント15章

前回は、キリストの復活の「私たちにとっての意味」を学びました。私たちは信仰によって、十字架につけられたキリストとともに死に、ともに生かされる、再創造を経験します。聖書にはこうあります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です(そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」。生き方も新しくされます。かつては、自分のために生き、自己実現を人生の目標としていました。しかし新しく生まれ変わった私たちは、そのような人間的な標準(自己中心)を捨て、神と人とを愛するために生きる者とされるのです。目に見える変化はゆっくりかもしれません。しかし目に見えない霊的な世界での変化は、鮮やかで、一瞬です。私たちは「全く新しくされた」のです。これを「新生(しんせい)」といいますが、代々の聖徒たちも、この恵みを体験してきました。

その代表格はパウロでしょう。彼はかつてサウロと呼ばれ、クリスチャンを迫害する急先鋒に立っていました。彼は律法(旧約聖書)に厳格な、パリサイ派のエリートでした。そんな彼にとって、十字架につけられたイエスが、神の子であり、救い主だというクリスチャンの主張は、神への冒涜以外の何ものでもありませんでした。そこで彼はクリスチャンを見つけ次第、牢にぶち込み、殺害のほう助もしていました(使徒8:1)。そんな彼に、イエス様は現れ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか(9:4)」と声をかけられました。本来ならこの時、命を失ってもおかしくありませんでした。でもイエス様は、彼を裁かないばかりか、生かして下さり、「福音を異邦人に届ける」新しい使命まで与えて下さったのです(使徒9章)。ですから彼には「今の私があるのは、ただ神の一方的な恵みによる(Ⅰコリント15:10)」という深い自覚がありました。その後の彼は、文字通り新しく創り変えられました。彼自身がこう書いています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラ2:20)」。「私の切なる祈りと願いは…私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です(ピリピ1:20-21)」。 

このパウロの存在は、復活を否定したい人にとって、最大の「不都合な真実」でしょう。もし彼の言うことが全部でたらめなら、嘘のために、ここまでする人がいるでしょうか?「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23‐27)」。でも彼はこれらを喜びとしたのです。なぜでしょうか?彼は本当に復活のイエスに出会い、赦され、生かされ、変えられたからです。その彼の命がけのメッセージです。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです」。

「ベン・ハー」という映画を知っていますか?原作を書いたルー・ウォーレスはもともと無神論者で、キリスト教撲滅運動のリーダーでした。彼は聖書を調べ、キリストの復活さえ否定できれば、キリスト教を撲滅できると考えました。そして世界中から資料を取り寄せ、熱心に研究しました。しかし資料を集めれば集めるほど、彼はキリストの復活を信じざるをえず、とうとうある夜、彼は書いていたキリスト教撲滅論を破り捨て、その資料を用いてキリストを救い主として描いた小説を書き始めたのです。それが「ベン・ハー」でした。だからあの物語の真の主人公はイエス様で、彼自身が経験したイエス様の愛と赦しがテーマとなっているのです。パウロと似ていますね。

「恵み」に目が開かれるとき、私たちの人生は変えられます。義務や強制、恐怖によっては変わりません。罪悪感が生まれるだけです。しかし十字架で死なれ、よみがえられ、今も生きておられる主イエスに出会い、その愛と赦しを経験する時に私たちの人生は全く新しくされるのです。 


ところが、神の恵みによって、
私は今の私になりました。(Ⅰコリ15:10)

もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラ2:20)


映画「Ben Hur」のワンシーン

2012年4月19日木曜日

第20回 「イエスの生涯―復活②」 Ⅱコリント5章 ローマ6章

前回は、史実としての「復活」について学びました。イエス様は、ただ単に、信じる者の心の中で、よみがえるだけではなく、実際に、この地上で、肉体をまとってよみがえられました。それを証明するかのように、イエス様は弟子たちの前で魚を一切れ食べられました(ルカ24:43)。弟子たちは決して狂信的な人々ではありません。復活について聞くと「たたわごと」と思ってしまうほど普通の人々でした。そんな彼らが変えられて、イエス様を大胆に宣べ伝えるようになったこと自体が、キリストがよみがえられたことの最も大きな証拠でもあります。今日は一歩進んで、このキリストの復活が、現代の私たちにどのような意味を持つのかを見て行きたいと思います。

イエス様の復活によって、失われた「平和」が回復されました。このことを理解するためには、今までの学びを思い出す必要があります。私たちは「神のかたち」に造られましたが、それは、私たちが「関係」の中に生きる存在として造られたという意味です。その「関係」は、具体的に四つ、①神様との関係②自分自身との関係③隣人との関係④被造物との関係でした。創造のはじめ、その「関係」は、愛によって完全な調和を保っていました。その状態を「平和(シャローム)」といいます。しかし罪が人の心に入って来た時、「平和」は壊れ、人は死ぬ存在となってしましました。「死」とは神様との断絶です。そこで神様は壊れた関係を修復し、平和を回復するために律法を与えられました。でも律法は私たちを救うどころか、かえって断絶を深めてしまいました。人は律法を誤解し、自分の祝福だけを追求する「律法主義」に陥るか、もしくは「さばき主である神の歪められたイメージ」に躓き、ますます神を避けるようになってしまいました。そこで神のひとり子であるイエス様が「平和の君」としてこの世にお生まれになってくださいました。

イエス様はどのように平和を実現して下さったのでしょうか。分かりやすくいうとイエス様は、そもそもの原因である人類の罪を背負い、十字架にかかってくださり、ご自分のいのちと一緒にその罪を葬り去り、3日目によみがえられることによって、まったく新しい世界(平和・神の国)を再創造して下さいました(エペソ2:14-16)。しかも重要なことは、それが単に2000年前の出来事ではなく、私たちにとって現実であるということです。イエス様は時間に支配される方ではなく、時間を創造された神様です(ヨハネ1:1-3)。そして、そのイエス様を信じる時、私たちは信仰によって十字架のキリストとひとつにされ、ともに死に、ともに生かされ、まったく新しいいのちに生かされるのです。聖書にはこうあります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」。見た目には、何も変わっていないように見えても、目に見えない世界では驚くべき変化が起こっています。天の御使いの歓声がわき起こっています(ルカ15:10)。罪の奴隷であった私たちが、神の子どもとされ、国籍は天に移されました。私たちは今や、天国から逆派遣された、神の国の大使(使節)なのです。その私たちに与えられた最大の使命は「平和をつくること」です(マタイ5:9)!

私たちには和解の務めがゆだねられています。十字架にはタテの棒とヨコの棒があるように、神様の和解を経験した私たちは、その和解をヨコの方向(隣人と被造物全体)に広げていく責任をゆだねられています。つまり目に見えない世界で始まった変化を、目に見える「この世」にも現していく使命です。ちょうど神のひとり子イエス様が、受肉され、この世にお生まれになり、神の国を述べ伝えられたように。イエス様に出会う以前の私たちは、ひたすら自分のために生き、神様でさえも自分のために利用するような者でした。それが「人間的な標準(自己中心)」です。でもこれからは、そのような標準で生きようとは思いません(Ⅱコリ5:16)。新しくされた私たちは、第一に『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二に『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』この二つを標準として生きます(マコ12:30-31)。私たちは、まさに、このために、救われ、生かされているのです(ローマ6:4)。

どうでしょうか?あなたは古い自分に死に、新しいいのちに生かされていますか?それとも古い標準がなかなか抜けず、もがき苦しんでいるでしょうか?もし後者なら、変われない現実ばかりを見て落胆するのではなく、既に新しくされた「霊的な現実」に目をとめましょう。健全な罪意識は大切ですが、あなたを変えるのは、復活の主に対する「信仰」と「感謝」の心なのです。


ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、
今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、
また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
Ⅱコリント5章16-18節

このように、あなたがたも、
自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって
生きた者だと、思いなさい。
ローマ6章11節



2012年4月13日金曜日

第19回 「イエスの生涯―復活①」 ルカ24章 ヨハネ20章

前回まで私たちはイエス様の十字架について学んできました。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられ、父なる神様から、のろわれ、見捨てられた者となってくださいました。十字架上の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とは、本来一つであるはずの父と子(三位一体の神)が、罪によって無残に引き裂かれたことによる叫びでした。本来なら、私たち自身が、自分の罪を負い、見捨てられるべき存在であったのです。その後、イエス様は「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と息を引き取られ、墓に葬られました(ルカ23章)。

でも、それでお終いではありませんでした。週のはじめの日の早朝、女たちが墓に向かってみると、なんと墓は空っぽでした。そして天の使いがこう言うのです。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです(ルカ24:5-6)」。そこで女たちはイエス様が、かつて「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない(7)」と話されていたことを思い出したのでした。すぐに女たちは、イエス様を裏切ったユダを除く11人の弟子たちが待っているところに帰って行き、一部始終を報告しました。しかし彼らにとっては、この話しは「たわごと」と思われ、信じる気にもなれませんでした(11)。この反応は、別な箇所に記されているトマスの態度にも通じます。トマスは他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、こう答えるのです「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」。このことからも、イエス様の弟子たちは、特別に熱心な人々でも、ましてや狂信的な人々でもなく、極めて普通で、常識的な人々であったことが分かります。

ある人々は、このイエスの復活は、弟子たちの自作自演だと言います。しかしマタイの福音書を読めば、十分すぎる対策が取られていたことが分かります。祭司長や律法学者たちはピラトにこう願いました。「(番兵に)三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出して『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが前の場合より、もっとひどいことになります(27:64)」。また墓の入り口には大きな石で封印をし(66)、女たちの話を聞きつけると、先回りして「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ」と噂を広める念の入れようでした。そもそも弟子たちは、十字架を前に逃げ出し、復活の報告を受けても「たわごと」のように思い、その後も「ユダヤ人を恐れ部屋に閉じこもって(ヨハネ10:19)」いたような人物たちでした。いのちの危険を冒してまで、遺体を盗み出すなんてできそうにありません。逆に言えば、そんな彼らが、それこそ命がけで「復活の主イエス」の宣べ伝える、証し人へと変えられていったところに「本当に復活は起こった」という、信ぴょう性があるのではないでしょうか?

弟子たちはどのように信じる者へと変えられていったのでしょう。結論から言えば、復活の主イエスに出会ったからです。しかし聖書を読めば、そこに至るまでのプロセスも知ることができます。ペテロは半信半疑であったにもかかわらず、すぐに立ち上がり墓に向かって駆け出しました。彼はただ疑っていたのではなく、「知りたい」と願い、実際の行動に移したのです。そうして彼は、弟子の中では最初の目撃者となりました(ルカ24:34)。またトマスは最後まで「私の指を釘のところに差し入れなければ決して信じません(ヨハネ20:25)」と言っていましたが、それでも弟子たちの交わりの中に留まり続けていました(26)。「信じられない」といって、すぐに見切りをつけてしまうのではなく、それでも聖徒たちの交わりに留まり、求め続ける、その時、主ご自身が、その人に近づいてくださることが分かります。人間ですから「疑い」をいきなり克服するのは難しいでしょう。ただそれでも求める強い気持ちは大切です。その求める心が、信仰の始まりなのです。「その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』(マルコ9:24)。

そして一番大切なのは見ないで信じることです。イエス様もこのようにおっしゃられました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」。なぜなら「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリ4:18)」。

あなたがたはイエス・キリストを、
見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くすことのできない、
栄えに満ちた喜びにおどっています。
Ⅰペテロ1章8節


2012年4月5日木曜日

受難週祈祷会 「どうしてお見捨てになったのですか」

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」マタイ27章46節

イエス様が十字架上で語られた言葉を「十字架上の7言(げん)」と言います。2008,2009,2011,2012年の受難週ごとに学んできて、今年で4つ目の言葉になります。それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、日本語に訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味になります。どうしてイエス様は、このように叫ばれたのでしょうか?

ある意味この言葉ほど、誤解されている言葉はないと思います。明治十年代、キリスト教の伝道が盛んになされていった時代、岐阜にも近い富山にて、仏教徒によるキリシタン迫害がありました。その中で、キリスト教がいかに信じるに値しない宗教であるかを門徒たちに教える「かぞえ歌」があったと記録されています。その一節にはこうあります。「最後に臨みてキリストは、天主の(てんしゅ=神様を)うらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主のうらみてな、泣き出す」とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様のお言葉を指して言っているのです。最期は絶望の内に、神を恨みつつ、惨めに死んでいった情けない奴を、救い主だなどと信じている、クリスチャンとはなんと哀れな連中か、というわけです。

今日読んだ聖書箇所にも、その叫びを聞いた人々はこう言っています。「イエスはエリヤを呼んでいる。エリヤが助けに来るかどうかみることにしよう(49)」。そうしてイエス様のことを、助けを求める弱い奴だと言っているのです。現代でも、ある人々は「イエスは革命に失敗し、弟子達にも見捨てられ、無念のうちに『わが神、わが神』と叫んだのだ」と説明する人もありますし、ある人は、「イエス様は、十字架の上で苦しくて、苦しくて、ついつい本音が出てしまった」のだとも言います。今も昔も変わっていません。昔から人々は、このイエス様の十字架に躓くのです。聖書にはこうあります「(十字架につけられたキリストは)ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう(Ⅰコリント1:23)」と。しかしこうともあります。「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です!(18)」と。

イエス様が「本当は神の子ではなかった」からではなく、神の子であったからこそ、このように叫ばれました。父なる神様と子なるキリストは「ひとつ」でした(ヨハネ10:30)。愛によって完全に結ばれた三位一体(お一人)の神様です。イエス様がバプテスマを受けられた時、天からこのような声が聞こえました「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイ3:17)」。しかしイエス様が私たちの罪を負われたことにより、その親密な関係に亀裂が入り、断絶が生まれたのです。お一人の方が引きちぎられたらどうなるでしょうか?当然、ひどい苦痛が容赦なく襲いかかります。それがこの「わが神わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びの正体なのです。本来、私たちが見捨てられ、のろわれ「どうして私をお見捨てになったのですか…」と朽ち果てるべき存在でした。でもイエス様が、身代わりになってくださることにより、私たちは赦され、いやされ、父なる神様の愛の内に生かされることになったのです。(Ⅰペテロ2:24)

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」これは詩篇22篇1節の言葉の引用でもあります。衝撃的な言葉で始まるこの詩篇は、後半に進むにつれ主への信頼で溢れていきます。つまりどういうことなのでしょう?イエス様は絶望から、不信仰に陥りこう叫んだのではなく、信頼に溢れていたからこそ、主を尋ね「求めて」このように叫ばれたということです(26)。イエス様はその先に愛する父が御手を広げて待っておられることを信じていました。私たちも信仰生活の中で同じような苦しみを経験することがあるかもしれません。でもそんな時こそ、主を信頼し、尋ね「求め」続けたいものです。その先に必ず復活のいのちが待っていることを信じて!

まことに主は悩む者の悩みをさげすむことなく、
いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、
聞いてくださった。(詩篇22篇24節)


2012年3月8日木曜日

第18回 「イエスの生涯―十字架③」 Ⅰコリント1章18-31節

前回私たちは、イエス様が十字架で死なれた際、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた箇所を読みました(マタイ27:51)。それは文字通り新しい時代の「幕開け」でした。もはや神様と私たちの間に、仕切りの幕はありません。十字架という「道」が敷かれ、この道を通して、私たちは父なる神との「親しい交わり」という「永遠のいのち」をいただいているのです。しかし前回、一つだけ語らなかったことがあります。それは「群衆がなぜイエスを十字架につけたのか」ということです。祭司長や律法学者たちは「激しいねたみ」からでした。でも群衆はつい一週間前「ホサナ」と叫んでいたのに、急に「十字架につけろ!」と叫びだしたのです。なぜでしょうか?

彼らは弱々しいイエスにつまずいたのです。群衆が「ホサナ、ホサナ」と熱狂的にイエスをエルサレムに迎えたのは、自分たちの王となって欲しいとの期待を寄せてのことでした。彼らはこのように叫びました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に(マタイ21:9)」。そうなのです。彼らは、イエス様がダビデのような王様となり、イスラエルの黄金期を取り戻してくれることを期待し、「神の国」を、そんな自分たちの願望に重ねて理解したのです。しかしピラトの前に取り調べを受けるイエスは、小羊のようにおとなしく、不利な証言に言い返すこともなく、弱々しく見えたのです(イザヤ53章)。その姿に失望した群衆は、祭司長や律法学者たちよりも声を大にして「十字架につけろ!」と叫び出しました。実はこれも、旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書にはこうあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(53:1-5抜粋)」。

多くの人は、今でもこのイエスの十字架につまずきます。前回も記しましたが、ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。またある人は「どうして2000年前のイエスの十字架が私たちを救うんだ」とつまずきます。実際、私自身もそのように考え、誰にも言えず、長い間もがき苦しんできました。もちろん答えは聖書にあります。聖書の中から丁寧に御言葉を引用し、そのような疑問に答えていくことは大切です。そういった地道な学びが欠けているために、救いの確信を得られない人も多くいるのではないでしょうか。しかし誤解をしてはいけません。私たちは決して「知的に納得したから救われる」のでもありません。信仰とは目に見えないことを確信し(ヘブル11:1)、幼子のように受け入れ(マルコ10:15)、実際に行動に移すことなのです。分かりやすく言えば、ペテロは納得したらから湖の上に一歩を踏み出したのでしょうか?いいえ。彼は信じたからこそ一歩を踏み出したのです(マタイ14:22‐33)。信仰もまた、水の上に一歩を踏み出すようなものです。

なぜ神様は、私たちを救うのに「十字架」という方法をとられたのでしょうか?それは「神の御前で誰も誇らせないためです(1:29)」。多くの人は、宗教に自己実現を求めます。「これを信じたら、立派になれます。人からも認められます。豊かになります。成功します。」など、とにかく上昇志向の道具として「神」を利用しようとするのです。でもそれは、結局自分を「神」として、自分を誇ろうとしているだけなのです。ユダヤ人も同じです。彼らは自分たちが望む「王国」の実現のために、イエスを利用しようとしたのです。ギリシヤ人にとっての自己実現とは、知恵を得ることです。それが一番、人から認められることだからです。でも「十字架の福音を信じた」といって、どれだけ人から認められるのでしょうか?少なくとも十字架とは、外国ローマの処刑の道具で、しかも奴隷など特に身分の低い人を、見せしめとして処刑するための道具だったのです。でも神様は、そのような十字架で死なれた「救い主」を「信じる」ことによってのみ救われる、と定められたのです。それは私たちが、ただ十字架のキリストを誇る者となるためでした(1:31)。

あなたの誇りは何でしょうか?もしあなたが、本当に自分に死に、幼子のように素直になり、キリストの十字架の福音を受け入れ、神を神とし、主のみを誇りとするなら、その信仰があなたに力を与えるのです。得ようと思うものはそれを失い、喜んで放棄する者は豊かに与えられます。

十字架のことばは、
滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、
神の力です。
(Ⅰコリント 1章18節)


2012年3月1日木曜日

第17回 「イエスの生涯―十字架②」 マタイ27章

前回は旧約聖書より、イエス様の十字架の背景を学びました。昔の人々は、牛や羊に、自らの手を置くことによって(また年に一度は大祭司が代表して手を置くことによって)罪を動物に負わせ、いけにえとしてほふり、それによって罪の赦しを得ていました。しかしイエス様は、ご自分のからだをもって、ただ一度、完全な、いけにえ(傷のない小羊)となってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです(ルカ23:34)。私たちはただ信仰によって、2000年の時を超えて、十字架のイエス様と霊的に一つされ、罪(古い自分)に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。今日はその理解を、新約聖書を通して、深めたいと思います。

そもそもなぜイエス様は十字架に架かられた(つけられた)のでしょうか?直接的な原因は、パリサイ人や律法学者などの「激しいねたみ」でした(18)。イエス様は、形式(律法)だけの宗教の虚しさを厳しく指摘され、神様と隣人に対する愛を説かれました。それが形だけの宗教で利益を得、自分の立場を守ろうとする、宗教的指導者層の逆鱗に触れたのです。イエス様には何の罪もなかったことは、取り調べたピラトも、彼の妻も告白しています。ピラトは言いました「あの人がどんな悪いことをしたというのか(23)」、また彼の妻も「あの正しい人にはかかわり合わないでください(19)」と言っています。群衆も、数日前までは熱狂的に「ホサナ!」とイエス様を迎え入れていたのに(21:9)、祭司長たちに説きつけられ(20)、まるで何かに取りつかれたかのように激しく「十字架につけろ(22)」と叫びます。これはもちろん彼ら自身の言葉なのですが、彼らの中にある罪がそう叫ばせているとも言えるでしょう。イエス様は、すべての人の罪を赦し、神の子どもとし、神様との交わり(平和:シャローム)を回復するために、十字架にかからなければならなかったのです。これこそ、イエス様が十字架にかかられた、真の目的なのです(ロマ3:23)。

イエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。しかし思い違いをしてはいけません。三位一体の神であり、完全な一致を保っておられる父と子が、罪によって分断され、引きはがされたからこそ、十字架には肉体的な苦しみ以上の苦悩があったのです。第9回でこう学びました。「人間が神のようになり、自分勝手に生き始めた結果、『神のかたち(平和)』は大きく歪められ、苦しみと悲しみが全人類に広がりました。そして人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく『神様との断絶』を意味します」。本来ならば、私たちが、あの十字架の上で『神との断絶』という、肉体的かつ霊的な苦しみを味わわなければならなかったのです。しかし、一方的な恵みによって、神のひとり子であるイエス様が、すべての罪と咎とを負い、十字架にかかってくださったことにより、私たちは、価なしに義と認めら、神との平和を回復したのです(ロマ3:24)。

キリストの死の瞬間、神殿の幕が真っ二つに裂けました。文字通り、新しい時代の「幕開け」です。前回もお話ししましたが、旧約時代には年に一度、大祭司が神殿の幕の内側にある「至聖所」に入り、民全体の罪のために祈りました。でもイエス様は、ご自分が「神の大祭司」として、またご自身が「完全ないけにえ」となることによって、平和(神との和解)を成しとげて下さったのです。これが新約時代の幕開けです。この時代に生きる私たちは、大祭司によらず、いけにえによらず、「ただ信仰によって」、大胆に神に近づき、罪の赦しと、永遠のいのちをいただくことができるのです。もはや神様との間に、隔ての壁も、敵意も、仕切りの幕もありません。目の前には十字架という道が敷かれており、その先には、主とともに歩む、新しい人生が待っているのです。ヘブル人への手紙にはこうあります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです(10:19-20)」。

躊躇していることはありませんか?イエス様がいのちを投げ出して、隔ての壁を、神殿の幕を取り除いてくださったのです。目の前には、天の父なる神が、両手を広げ、待っていてくだいます。そのお方は誰よりも私たちのことを知っていて、愛にあふれ、ともに人生を歩みたいと願っておられます。何も心配することはない。目の前の十字架の道を、大胆に踏み出してみませんか?

こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、
大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
(ヘブル10章19節)

2012年2月23日木曜日

第16回 「イエスの生涯―十字架①」 レビ4章、出エジプト12章

前回はイエス様の「たとえ話」について学びました。その内の一つは「放蕩息子(失われた二人の息子と、父の愛の物語)」でした。家を飛び出し、放蕩し、故郷に帰ってきた弟息子を、父は自ら走り寄り、抱きしめ、最高のもてなしをしたのです。実に感動的なシーンでした。しかし、決して罪がチャラ(ご破算)になったわけではありません。物語には登場していませんが、その背後には「良い兄」の存在があったことを話しました。その良い兄は、遠い国の弟を探しに行き、一緒に住み、罪と負債をすべて肩代わりし、弟をまっさら(一点の汚れもない)な存在にして父のみもとに返して下さったのです。たとえ自分は父から見捨てられた者となっても…。その良い兄こそ、イエス様でした。今回からは、このイエス様の贖罪(しょくざい)について学びます。

イエス様が私たちの罪を贖(あがな)ってくださった、とはどういう意味なのでしょうか?直接の意味は、イエス様が身代わりとなってくださったことによって、私たちの罪は赦された、という意味です。聖書にはこうあります。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(Ⅰペテロ 2:24)」。また「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。しかし、この話しをしましたら、ある方(求道者)からこんな質問を受けました。「どうして罪の赦しのためには、身代りとか、いのちの犠牲が必要なのですか」。確かにそう思うのは当然です。そのことを理解するためには、少しばかり旧約聖書の知識がいるのではないでしょうか。

「旧約」の「約」は「契約」の「約」です。神様が人間と結ばれた、もともとの契約を「旧約」といい、イエス様の十字架以降、更新された契約を「新約」というのです。古い契約においては、十戒をはじめとする律法を守ることによって祝福されるという約束でした。その律法を破ることを「罪」というのですが、その罪は「いけにえを捧げることによって赦される」(ただし故意の殺人などの場合には自分の命をもって償わなくてはならない)と教えられています(出29-30章、レビ記1-7章、民28-29章)。そのため旧約時代には、毎日、安息日ごと、年に一度など、事あるごとにおびただしい数のいけにえが捧げられていました。それによって人々は、罪の赦しが決して軽々しいものではなく、犠牲の伴うものなのだということと、神の基準の高さを学んでいったのです。またその際、興味深いことが行われました。罪の赦しを求める人がいけにえを捧げる際、また祭司が民を代表して罪の赦しを祈る際、そのいけにえの頭の上に手を置き、自分たちの罪を負わせました。それによって、本来、自分たちが受けるべき裁きの、身代わりとするためでした。

でもイエス様は、私たちの罪のために、自ら進んで、いけにえの小羊となってくださいました。イザヤ書にはこうあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた(53:6)」。興味深いことに、イエス様が十字架にかかられたのは、過越の祭りの前日でした(ヨハネ19:14)。この日は特別な日で、イスラエルがエジプトを脱出する際の出来事に関連しています。パロは心をかたくなにし、なかなかイスラエルを去らせませんでした。そこで神様は、そんなパロの心を変えるため、エジプトに十の災いを下されたのです(7-12章)。そして最後の災いは、エジプト中の初子を家畜に至るまで打つというものでした。しかし神様の約束を信じ、門柱とかもいに小羊の血を塗った家は助かったのです。イエス様が十字架にかかられたのも「この日」でした!これは神様のご計画によります。このことが分かった時、鳥肌が立つくらいに感動しました。今日も、信仰によって、心にイエス様の十字架の血を塗られた者は、罪に定められることは決してないのです(ロマ8:1)。

このイエス様の十字架から、全く新しい時代が始まりました。イエス様ご自身が、ただ一度、完全な、いけにえとなってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです。昔の人は、手を置くことによって罪を動物に負わせましたが、私たちは信仰によって、時代を超えて、この十字架のイエス様と一つされるのです。そして古い自分に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。ここに本当の希望があります。十字架については、来週も学びます。

その翌日、(バプテスマの)ヨハネは
自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
ヨハネ1章29節

2012年2月18日土曜日

第15回 「イエスの生涯―たとえ話」 ルカ15章

前回はイエス様の奇跡について学びました。その際、聖書には読み方があることを教えられました。例えば、五千人の給食の奇跡にしても、水上歩行の奇跡にしても、それが「本当か嘘か」と読むのではなく、そこに書かれている意味をしっかり読み取ることが大切であると学びました。その時、聖書の奇跡は単なる2000年前の出来事ではなく、私たちの心に迫ってくる霊的な現実(信仰の教訓)となるのです。今日は、奇跡と並んでイエス様の宣教に特徴的なことです。それは、たとえ話についてです。特に有名な「放蕩息子のたとえ」からともに教えられましょう。

事の発端は弟のひと言です。「お父さん私に財産の分け前をください」。財産とは普通、父が亡くなった後に分け与えられるべきものです。しかし弟はまだ父が生きているのに、分与を望んだのです。つまりこういうことです。「お父さん、あなたに興味はありませんが、あなたのお金に興味があります。財産を分けてください。あとはわたしの好きにしますから」。普通の父だったら怒るのではないでしょうか?勘当されても仕方ありません。でも父は(内面に深い葛藤があったと思いますが)それをすんなり渡してしまうのです。そして弟は遠くへ旅立ち、そこで財産を湯水のように使ってしまうのです。どん底まで落ち、彼はハッと我に返ります。そして父のもとへ帰る決心をします。しかし道半にして、お父さんが弟を見つけ走り寄ります。感動的なシーンです。そして父は最上級のもてなしをし、息子の手に指輪をはめ宴会を開きます。雇い人なんかではない、息子としての立場が一方的なあわれみで回復されたことを意味しています。このように神様は、どんなに神様から遠く離れた人生を送ってきた人も、救い、子としてくださるのです。

ここで兄が登場します。兄は怒って家に入ろうともしませんでした。そしてこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」。兄にはどうしてもわかりませんでした。好き勝手にして、帰ってきた弟が、当然のように迎え入れられることが。「だったら真面目にお父さんに仕えてきた自分がバカみたいじゃないか」とも言わんばかりです。つまりこの兄も、べつに、お父さんを愛し仕えてきたわけではないのです。言ってみれば全ては「自分のため」でした。なのに好き放題やってきた弟が同じように愛され祝福されているのが我慢ならなかったのです。父親から見れば、弟だけでなく、この兄も失われた息子でした。心が失われていた。一緒にいたけど、心は遠く離れていたのです。彼もまた悔い改めて、祝宴に加わり、お父さんの前に膝まずき、悔い改めるべきだったのです。

そもそもこのたとえ話は兄タイプの人に語られたものでした。15章は、罪人とイエス様が食事をすることに、つぶやくパリサイ人や律法学者たちの姿で始まっています。罪人とは弟タイプのこと、そしてパリサイ人や律法学者は「正しすぎる」兄タイプのことです。この放蕩息子のたとえ話には一人の人物が隠されています。1から13節のたとえ話しには共通項があります。九十九匹を残して一匹を探す羊飼いの姿。銀貨十枚のうち亡くした一枚を必死に探す女の姿。でも放蕩息子のお父さんは、弟の帰郷を喜び走り寄りましたが、基本的に待っていました。この話には「必死に探して連れ戻す人物(本来、兄が取るべきだった行動)」が意図的に隠されているのです。じつは、それこそイエス様なのです。イエス様は、放蕩息子のように、父の愛が分からず、父の愛からさまよい出て、自分勝手に生きていたわたしたちを、捜して救うためにこの世にお生まれになりました。そして十字架にかかり、その血で私たちの罪を洗い、父のもとに帰る準備をすべて整えて下さったのです。イエス様こそ私たちにとって良い兄なのです。イエス様はあえてそれを隠すことによって、かえって際(きわ)立たせ、人々が後に思い出して気づくようにされたのです。

イエス様のたとえ話は、物語としてはすんなり心に入ってくるでしょう。しかしその背後には、深い霊的な意味が隠されています。イエス様の十字架についてはまた次回お話しします。あなたは弟タイプでしょうか兄タイプでしょうか?もし神様に逆らって歩んできたのなら今すぐ悔い改めて父のもとに帰りましょう。または兄タイプなら正しすぎるのも問題です。あなたは人を裁いていませんか、赦していない人がいませんか?あなたもまた神様に立ち返る必要があるのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8章29節

2012年2月9日木曜日

第14回 「イエスの生涯―奇跡」 マタイ14章13-33節

前回からイエス・キリストの生涯について学んでいます。人としてお生まれになったイエス様が、地上で何をされたのか、その軌跡をたどっているのです。前回は神の国について学びました。イエス様は、多くのことを教えられましたが、そのメインテーマは「神の国」でした。神の国とは、人間の罪ゆえに壊れてしまった神の平和(シャローム)」のこと。具体的には、①神様との平和、②自分の良心との平和、③隣人との平和、④被造物との平和、こうした四つの関係が調和の内に保たれていること、それこそエデンの園に象徴される神の国です。しかしその平和は、人間の罪(自己中心)のゆえに壊されてしまいました。イエス様はその壊れた世界を、回復し、再創造するために来て下さったのです。そして神様は、その回復の御業を、十字架によって罪赦された人を通して行われます。人の罪によって失われた神の国は、罪の赦しによって再び始まるのです。

イエス様は、この地上でたくさんの奇跡を行われました。病人がいやされたり、水がぶどう酒になったり、悪霊が追い出されたり。現代人にとって、このような奇跡は非科学的に思えて、つまずきの原因になってしまうのかもしれません。現代人は、科学信仰(科学こそ万能で、科学で証明できないことは全て迷信だと思う傾向)に陥っているか、その正反対で非常にオカルト的な世界観(スピリチュアル、ニューエイジ、占いなど)にはまっているかです。しかしクリスチャンはそのどちらでもありません。天と地を創造された神様は(創世記1:1)、自然の法則を超えることも出来ると信じています。しかしオカルトは拒否します。それは聖書に禁じられていることです(レビ19:31)。イエス様の行われた奇跡には、呪文や怪しい儀式など、魔術的な要素はいっさいありませんでした。ただ、みことばの権威に基づいて単純に行われ、天の父に栄光が帰されました。

イエス様の代表的な奇跡は「五千人の給食」です。聖書には色々な奇跡がありますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書に共通して記されているのは、実はこの「五千人の給食」だけです。それだけ重要な奇跡だとも言えます。何が重要なのか?それは奇跡に込められているメッセージです。具体的にあげてみましょう。①「あなた方で、あの人たちに(16)」と言われていますが、これはイエス様の御業に積極的に参与することの大切さを教える言葉です。②「五つのパンと二匹の魚(17)」のようなどんな小さな賜物でも、イエス様のところに持っていく時、大きく用いられます。③余ったものを数えたら12のかごいっぱいになった(20)。12は弟子たちの数。つまり与えることは失うことではなく、自分自身も豊かに祝福されることを教えている、などなど。数年後に弟子たちは、イエス様を天に送り、自分たちが神の国の福音を述べ伝える存在になっていきます(マタイ28:18-20)。だからこそ、この奇跡からしっかり学ぶ必要があったのです。

続いて記されているのは「水上歩行」の奇跡です。ある人々は「浅瀬(あさせ)だったのだ」とか「弟子たちが幽霊だと言った通り、幻覚だったのだ」とか色々なことを言います。でもこの奇跡でも大切なのは、そこに含まれているメッセージです。①風や波は(24)、人生の試練(嵐)のことを意味しています。②しかしイエス様は、水の上を歩いて来られたように、そういった問題に支配されることのないお方です(25)。③私たちがすべきことは、このお方を信頼し、問題を見て心配するのではなく、しっかりイエス様だけを見つめて着いて行くことです。目をそらしてしまう時、ペテロのように問題に飲み込まれそうになってしまうのです(30)。④何よりも、この奇跡は、イエス様が神の子であることを現しています。この出来事の直後、弟子たちは言いました。「確かに、あなたは神の子です(33)」。このように奇跡には、私たちへの信仰の教訓が含まれています。

聖書には読み方があります。それを無視して「本当か嘘か」と批判的に読んでも、まったく恵まれません。かといって、すべてを字義どおりにとらえ実行することも、本当の熱心とは違います。大切なのは、そこに書かれている意味をしっかり読み取り、神様のみこころに従うことです。◆その意味が分かるとき、神様の臨在が私たちの心に迫ってきます。その時、聖書の奇跡はもう単なる2000年前の出来事ではありません。聖書を読む時には次のように祈って読みましょう。「イエス様、今日も聖書を通して私に語りかけて下さい。あなたのことをもっと知りたいです」。

「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、
ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
(マタイ11章2-6節)

2012年1月31日火曜日

第13回 「イエスの生涯―神の国の福音」 マルコ1章1-27節

少し間が開いてしまったので復習をしましょう。神様がこの世をお創りになった時「それは非常に良かった(創1:31)」。神様はエデンの園を造り、そこに「神のかたちに」人を創造された(1:27,2:8)。神のかたちとは、三位一体の神が、愛と調和の中に生きておられように、私たちも「関係」の中で生きる存在であることを意味していました。具体的には、神様との関係、自分自身との関係、隣人との関係、被造物との関係。この4つの関係に調和が保たれている時、人は「幸せ」を感じ、またその状態が保たれていることを「神の平和(シャローム)」と言いました。

でも人間の罪ゆえに、その平和はこわれてしまいました(創3章)。罪とは言い方を変えれば「自己中心」です。「神様なんかいらない」「私の人生は私の好きなようにする」「神様の言葉に従いたくない」という心のことです。エバも神様の戒めを破り、自分の欲に従いました。アダムもそれに続き、人類に罪が入ってきたのです。彼らの子カインはアベルを殺し(4章)、地に悪がはびこり(6章)、人は創造された時とは程遠い「的外れ」な存在となってしまいました。神様はそんな人間のために、律法(十戒)を与えられました(出12章)。それによって、秩序を与え、失われた平和を取り戻すためです。しかし人間は律法に従えないばかりか、律法を捻じ曲げ(マコ7:13)、本来、神を愛し、隣人を愛するための律法を、自分の義を建てるための道具としてしまったのです。ギリシャ語で「罪」のことをハマルティアと言いますが、彼らの姿勢こそ「的外れ」でした。

そんな時代にイエス様がお生まれになりました。それまで、神様に従う多くの預言者が、神様のメッセージを届けようとしましたが、ひどい扱いを受け、殺されてしまいました。そこで神様は「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう(マタイ21:37)」と遣わされたのです。イエス様は、神のひとり子であり(100%の神)、肉体的には、おとめマリヤより生まれた人の子でした(100%の人)。何のために、お生まれになってくださったのでしょうか?それは、神様の意図(的・まと)を大きく外れ、神様の目から見たら「失われた人」を捜して救うために来られたのです(ルカ19:10)。イエス様は生まれてすぐヘロデの迫害を逃れエジプトで暮らし、ヘロデが死んでからは小さな田舎のナザレで、大工ヨセフの子として家を助け、ヨセフとマリヤの間に生まれた兄弟たちの面倒を見られました(ルカ2:51-52,マコ6:3)。そして30歳の時、ついに公生涯を始められたのです。

第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(マコ1:15)」でした。イエス様の福音の中心は「神の国」です。神の国とは何でしょう?「時が満ち」とはどういうことでしょう?イエス様の時代までに、イスラエルの12部族は度重なる捕囚によってバラバラにされていました。信仰的にも自分たちが神の民であるという自覚(アイデンティティー)を失い、他宗教と混じり合っているか、パリサイ人や律法学者たちのように、やたら細かくて厳格な律法主義と化していました(マタイ23章)。そして国の主権を失いローマ帝国に支配されていました。でもそれこそ「神の時」でした。イエス様はまず12弟子を選び、彼らを元に、血筋によらない、信仰と御霊による「新しい神の民」を創造され始めたのです。それによって失われた平和を取り戻し、神の愛と義(正義)が支配する、新しい共同体を創造するためです。その国の律法は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ22:37-39)」に集約されました。世界再創造の壮大な計画の始まりです!

イエス様の教えは権威に満ちていました。その教えを聴くだけで、人々は権威に圧倒されました。神の国は、人の熱心や努力によって成し遂げられるものではありません。もともと罪によって、神のかたち(平和)は失われましたし、その罪を植え付けたのはサタンでした。そうなら、神の国が実現するためには、まずサタンの力を打ち砕き、罪を赦し、人間を新しく生まれ変わらせる力が必要なのです。イエス様にはその権威がありました。聖書にはこうあります。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです(マタイ12:28)」。イエス様のまかれた神の国の種が、大きく成長し始めました。

イエス様には権威があります。色々な力に押しつぶされそうになったり、負けそうになったりしてしまうこともありますが、イエス様の権威を思い出して、より頼む者になりたいと思います。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。
(Ⅰコリント4章20節)

2012年1月13日金曜日

第12回 「まことの神、まことの人」 ヨハネ1章1-14節、コロサイ1章9-23節

前回私たちは「メシア預言」について学びました。例えばイザヤ9章14節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。この預言は紀元前8世紀に書かれたものです。イエスキリストは、偶然や人の思いつきによって生まれたのではなく、神様の定めによってお生まれになった、来るべき「救い主(メシア)」であったのです。

イエス・キリストは、まことの神(100%の神)であられました。ヨハネ福音書の冒頭にはこう言われています。「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(1:1)」。またコロサイ人への手紙にはこうあります。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです(1:15-16)」。さらにイエス様ご自身こう証言されています。「わたしを見た者は、父(父なる神)を見たのです(ヨハネ14:9)」。「わたしと父は一つです(10:30)」。

その、まことの神が、まことの人(100%の人)となられました。それが世界ではじめのクリスマスです。イエス様は、肉体としては人間と全く同じようになられました。しかも無力な赤ちゃんとして、貧しい家畜小屋にお生まれになってくださいました(ルカ2:7)。これは本当に不思議なことです。神様の世界、すなわち「永遠」というものが、どのような世界であるのか、私たちには想像もできませんが、きっと時間の制約もなく、肉体的な制約(物質的・空間的な制限や不自由さ)もないことでしょう。そんな世界から、私たちと同じこの世界にお生まれになってくださったのです。本来、水と油、絶対に交わることのない、二つの世界が、イエス・キリストにおいて「完全にひとつ」となりました。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人なのです。

そのことが、イエス・キリストとの名前にも表れています。よくイエスが名前で、キリストが名字であると誤解されていますが、そうではありません。イエスは名前で、キリストは「油注がれた者、すなわちメシヤ(救い主)」という意味です。つまり、イエス・キリストとお呼びするだけで、「このイエスというお方は、私の救い主である」と信仰告白をすることになるのです。しかも、「イエス」という名は当時、非常にありふれた名前のひとつでした。日本で言えば太郎君とでもいいましょうか。しかも、あのバラバ(イエスの代わりに釈放された犯罪人)もイエスという名前であったと言われています。新共同訳聖書ではこう訳されています。「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』(マタイ27:17)」。この名前を付けられたのは、神様ご自身でした。夢の中で主の使いが現れてこう言うのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ1:21)」。なぜ、この名前なのでしょうか?

それは神のひとり子が、もっとも小さい者のひとりとなられたからです。イエス様は当時、もっともありふれた人のようになり、もっとも罪深い者と同じ名前を名乗られました。それは全ての点で私たちと同じようになり、本当の意味で救うためだったのです。聖書にはこうあります。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル2:14)」。逆に言えば、だからイエス様には人を救うことがおできになるのです。まことの神として罪を赦す権威をもちながら、私たちの弱さに同情してくださる、友としての神様なのです(ヨハネ15:15)。

神が人となられたのであり、人が神となったのではありません。日本の宗教においては、人が神に祭り上げられることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストは根本的に違っています。イエス・キリストは、失われた人を、捜して救うために、人の子となってくださったのです。

キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
ピリピ2章6-7節

第11回 「メシア預言とその成就」 イザヤ書9章2-7節、7章14節、53章1-12節

前回私たちは「人間の罪」について学びました。罪の本質とは自己中心です。それは自分に与えられた賜物や能力を、ひたすら自分のため用いたいと思う心のことです。そして自分と自分の欲望が、神のようになっていくのです。この罪によって「平和(シャローム)」は大きく歪められてしまいました。そんな人間に、神様は「十戒・律法」をお与えになりました。それによって、人間が「何が罪なのか」を知り、崩れてしまった「平和」を回復するためでした。また、その律法の究極の目的は「神様と愛し、隣人を愛する」ことでした。しかし人間は、その十戒さえも、ただ自分のために用いるようになってしまったのです。つまり「自分が裁かれないために」十戒は守らなきゃいけないのであって、自由に生きている人を妬み、裁き、自分はそうじゃないと自己満足におちいっていたのです。これはよく見過ごされることですが、十戒を破ることはもちろん問題です。しかし、後者の偽善も同じくらい大きな問題だということを忘れてはいけません。

そんな人間のために、神様は、ついにご自分のひとり子をこの世に遣わされました。それによって、何とかこの地に「平和」を回復するためです。その方こそイエス・キリストです。この方については、第7回の「三位一体」のところでこのように学びました。「創世記に、世を創造された神様のことが「われわれ」と複数形で記されています。それは父なる神と、聖霊なる神とともに、イエスキリストも、創造のはじめから存在しておられる神様の一人格だからです(ヨハネ1:1-3)。キリストは単なる、『賢人』とか『預言者』以上のお方であり、じつに「神のひとり子(三位一体の神の第2位格)」なのです」。しかもこの方は「神のひとり子」であるのに、なんと「人の子として」この世にお生まれになりました。聖書にはこのように書かれています。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14)」。

このことはキリストが生まれる前に書かれた旧約聖書の中に、何度も預言されています。紀元前8世紀に書かれたイザヤ書にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(9:6)」。またこうともあります。「それゆえ主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(7:14 参照マタイ1:23)」。しかも死に方まで!「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(53:5,7)」。またイザヤ書の少し後に書かれたミカ書には、生まれる場所まで預言さえています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ(5:2,4)」。

日本人の中には、イエスキリストを、歴史上の人物と思っていない人がいます。しかし本当にいたのです。紀元37年に生まれたヨセフォスという歴史家は「ユダヤ古代史」の中で中立的にこう記しています。「ピラトは、イエスがユダヤ人の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。なお彼によってキリスト者と名付けられた族(やから)は今もなお消え失せていない(ユダヤ古代史18:63)」。その他にも、イエスキリストの実在はクリスチャンに対して批判的な学者や人物によっても書き残されています。例:タキトゥス紀元(1世紀)、ユダア人の口伝の律法書紀元(1-2世紀)

イエスキリストは、クリスチャンの信仰の対象であるとともに、歴史上の事実でもあります。この事実は、すべて旧約聖書の預言に基づいています。なぜなら、この方こそ、来るべき救い主だからです。あなたはこのことをどう受け止めますか?事実は信仰によって真実となるのです。

マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
このすべての出来事は、
主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
マタイ1:21-22