前回私たちは、イエス様が十字架で死なれた際、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた箇所を読みました(マタイ27:51)。それは文字通り新しい時代の「幕開け」でした。もはや神様と私たちの間に、仕切りの幕はありません。十字架という「道」が敷かれ、この道を通して、私たちは父なる神との「親しい交わり」という「永遠のいのち」をいただいているのです。しかし前回、一つだけ語らなかったことがあります。それは「群衆がなぜイエスを十字架につけたのか」ということです。祭司長や律法学者たちは「激しいねたみ」からでした。でも群衆はつい一週間前「ホサナ」と叫んでいたのに、急に「十字架につけろ!」と叫びだしたのです。なぜでしょうか?
彼らは弱々しいイエスにつまずいたのです。群衆が「ホサナ、ホサナ」と熱狂的にイエスをエルサレムに迎えたのは、自分たちの王となって欲しいとの期待を寄せてのことでした。彼らはこのように叫びました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に(マタイ21:9)」。そうなのです。彼らは、イエス様がダビデのような王様となり、イスラエルの黄金期を取り戻してくれることを期待し、「神の国」を、そんな自分たちの願望に重ねて理解したのです。しかしピラトの前に取り調べを受けるイエスは、小羊のようにおとなしく、不利な証言に言い返すこともなく、弱々しく見えたのです(イザヤ53章)。その姿に失望した群衆は、祭司長や律法学者たちよりも声を大にして「十字架につけろ!」と叫び出しました。実はこれも、旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書にはこうあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(53:1-5抜粋)」。
多くの人は、今でもこのイエスの十字架につまずきます。前回も記しましたが、ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。またある人は「どうして2000年前のイエスの十字架が私たちを救うんだ」とつまずきます。実際、私自身もそのように考え、誰にも言えず、長い間もがき苦しんできました。もちろん答えは聖書にあります。聖書の中から丁寧に御言葉を引用し、そのような疑問に答えていくことは大切です。そういった地道な学びが欠けているために、救いの確信を得られない人も多くいるのではないでしょうか。しかし誤解をしてはいけません。私たちは決して「知的に納得したから救われる」のでもありません。信仰とは目に見えないことを確信し(ヘブル11:1)、幼子のように受け入れ(マルコ10:15)、実際に行動に移すことなのです。分かりやすく言えば、ペテロは納得したらから湖の上に一歩を踏み出したのでしょうか?いいえ。彼は信じたからこそ一歩を踏み出したのです(マタイ14:22‐33)。信仰もまた、水の上に一歩を踏み出すようなものです。
なぜ神様は、私たちを救うのに「十字架」という方法をとられたのでしょうか?それは「神の御前で誰も誇らせないためです(1:29)」。多くの人は、宗教に自己実現を求めます。「これを信じたら、立派になれます。人からも認められます。豊かになります。成功します。」など、とにかく上昇志向の道具として「神」を利用しようとするのです。でもそれは、結局自分を「神」として、自分を誇ろうとしているだけなのです。ユダヤ人も同じです。彼らは自分たちが望む「王国」の実現のために、イエスを利用しようとしたのです。ギリシヤ人にとっての自己実現とは、知恵を得ることです。それが一番、人から認められることだからです。でも「十字架の福音を信じた」といって、どれだけ人から認められるのでしょうか?少なくとも十字架とは、外国ローマの処刑の道具で、しかも奴隷など特に身分の低い人を、見せしめとして処刑するための道具だったのです。でも神様は、そのような十字架で死なれた「救い主」を「信じる」ことによってのみ救われる、と定められたのです。それは私たちが、ただ十字架のキリストを誇る者となるためでした(1:31)。
あなたの誇りは何でしょうか?もしあなたが、本当に自分に死に、幼子のように素直になり、キリストの十字架の福音を受け入れ、神を神とし、主のみを誇りとするなら、その信仰があなたに力を与えるのです。得ようと思うものはそれを失い、喜んで放棄する者は豊かに与えられます。
十字架のことばは、
滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、
神の力です。
(Ⅰコリント 1章18節)