新しいエルサレムが、天から下って来る(黙示録21:2)!?今私たちがいる世界は、三位一体の神様によって創造されました(創世記1:1)。しかしこの世界に、罪が入ってきたことにより、秩序が失われ、闇が地を覆いました。そこに世の光であるイエス様がお生まれになり、十字架にかかり「神の国」を打ち建てられました。そして使徒たちは、その神の国を世界中に広げ、私たちも全世界に福音を述べ伝えようと奮闘しています。そのイエス様が始められた「神の国」は、やがてイエス様がもう一度来られる時に完成します!その時「新しいエルサレム」に象徴される「天の御国」が天から下って来て、地上にある「神の国」とひとつにされ、そこに「まったく新しい天と、新しい地(完全な平和)」が生まれるのです!以前お話ししたエペソ1章9、10節にはこうありました。「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それはこの方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」。またその時、イエス様の声が響きます。「見よ、わたしはすべてを新しくする(5)」「ことは成就した、わたしはアルファでありオメガである(6)」。(参照:讃美歌21:362「ここも神の御国なれば」)
その新天新地はどんな所なのでしょうか?中央には「いのちの水の川」が流れており、その両岸には「いのちの木」が生えています(黙示録22:1-2)。そして人は、いのちの木の実をとって食べる権利を与えられています(14)。何かを思い出しませんか?エデンの園です!アダムとエバが罪を犯した時、神様は、彼らがもう、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように、エデンの園から追放し、ケルビムの輪で封印をしました(創世記3:22)。しかしイエス様の再臨と共に、エデンの園の封印が解かれ、永遠のいのちが回復されているのです。また、こうとも言われています。「見よ。(中略)神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである(創世記21:3-4)」。
そこに、私たちも入れられるのです。その条件について黙示録にはこうあります。「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです(7:14)」。つまりイエス様の十字架の血で、罪で汚れた心を聖くされていることなのです。私たちは、やがて誰しも、地上での歩みを終えます。その日は突然にやってくるかもしれません。死が「無」の始まりではなく、「永遠」への入口であるなら、私たちは良き備えをしなければなりません。いや、それこそが、この地上で生きている間の、最も大事な仕事であるとも言えます。ある人は「死んでから、イエス様の再臨まで、私たちの魂はどこにあるのでしょう」と心配します。パラダイスやハデスが、その中間状態だと説明する人もあります。でも肉体を離れた魂は、時間から解放されているのではないでしょうか?ですから、もし今日、何かがあったとしても、備えができているなら、私たちはすぐに天の御国に移されるのです!
あなたの備えは大丈夫ですか?死後のことをしっかり考え、望みを持って生きることは現実逃避ではありません。そこのことについて考えないのが現実逃避です。またこの望みは、今を生きる私たちの力となります。この世にあっては報われないこともあります。でもイエス様が「目の涙を拭いとってくださる」ことを信じる時、その希望が「それでも愛する力」に変えられるのです。
これらのことをあかしする方がこう言われる。
これらのことをあかしする方がこう言われる。
「しかり。わたしはすぐに来る。」
アーメン。主イエスよ、来てください。
アーメン。主イエスよ、来てください。
黙示録22章20節