前回は「知られない神(お父さん)に」と題して学び、このように語りました。「心を白紙にし、まずこのお父さんの言うことを聞いてみて、このお父さんと一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか?お父さんの愛が、心に響いてきます」。でも、どうしたら私たちは、このお父さんの声を聞くことができるのでしょうか?どうしたら、その豊かな愛を知ることができるのでしょうか?一言でいえば、それは「聖書(Bible)」を通してです。聖書は、ギネスにも認定された世界の隠れたベストセラーであり、現在も多くの人々の人生に決定的な影響を及ぼしている「本の中の本」です。(*国際聖書協会の発表によると、2000年の1年間に、約6億3300万冊が配布・販売)
そもそも聖書は「いつ」「誰が」書いたのでしょうか?聖書は大きく、旧約聖書(39巻)と新約聖書(27巻)に分けることができます。一番古い「創世記」は今から約3500年前に書かれ、一番新しい「黙示録」は約1900年前に書かれました。つまり創世記から黙示録まで全部書かれるのに、およそ5400年もの歳月を要していることになります。また書いた人は、当然一人ではなく、約40人の人々によって書かれています。この人々は、時代や場所、言語や教育も全く異なった人々で、預言者もいれば、王や学者もいるし、医者や漁師や税務署の職員など、本当に多種多様な人が関わっています。にもかかわらず、聖書には驚くほどの統一性があります。それは、聖書の「真の著者」が神様であるからです。もちろんそれは、神様が人を支配(manipulate)して、一方的に書かせたという意味ではなく、その人の性格や賜物を用いながらも、神様が導かれたという意味です。だから諸要因によるところの差はあるものの、メッセージにおいては一貫しているのです。
そのメッセージテーマとは何でしょう。それは「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること(Ⅱテモテ3:15)」です。聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があると言いましたが、「約」は、「約(promise)」であり「訳(translation)」ではありません。旧約聖書には、神様が与えられた戒め(律法)を守る者は祝福されるという「旧い契約」や、やがて救い主がお生まれになるという「約束」が記されています。また新約聖書には、「約束の成就」としてお生まれになったイエス・キリストと、このキリストを信じる者は誰でも救われるという「新しい契約」が記されています。もう少し分かりやすく言うと聖書には、①神様が私たちを愛しておられること。②でも私たちはその神様を裏切ってしまったこと。③にもかかわらず神様は私たちを愛し、驚くべき方法で救いの道を用意して下さったこと。④私たちはどうしたらその救いを受け取ることができるのか。⑤そして信じた者は、どのように生きていったらよいのか、などについて書かれています。この聖書は「神様からの愛」がギッシリ詰まっている「神様からのラブレター」なのです。
読み方に注意してください。17世紀の啓蒙(けいもう)主義以降、聖書は色々な方法で分析され、批判されてきました。すなわち、歴史的、文学的、科学的に「でたらめだ」とされたのです。18世紀フランスの無神論者ヴォルテールは「百年以内に聖書はこの世界から消える」と宣言しました。しかし聖書はなくなりませんでした。それどころか、ますます力強く世界中に広がり、多くの人々に生きる希望と勇気を与え続けているのです。聖書の目的は、私たちに「神の愛」を伝え、救い、豊かな人生に導くことです。ラブレターを科学的に分析して読みますか?そんなことをしたら、せっかくのラブレターが台無しです。聖書も同じです。神の愛を、科学のメスでズタズタに引き裂いてはいけません。科学的にでたらめだと認めているのではありません。例えば、千年前の人々に、今日のコンピューターやIT社会を想像することができたでしょうか?タイムマシンで遡り、いくら熱心に説明しても、彼ら自身の手で書き残す説明には限界があるしょう?ましてや、神様の創造の神秘や天国の素晴らしさについて、神様がどんなに人の心に語りかけても、言葉で書き残すのには限界があるのです。ラブレターの使命は、あくまで愛を伝えることです!
どうか批判的にならず、聖書の言葉を深く味わってみてください。本当か嘘か、分析しながら読むのではなく、神様がこの言葉(みことば)を通して、私に何を語ろうとしておられるのか、そのメッセージに意識を集中しながら読んで下さい。「神様、私にも語りかけて下さい」と祈りながら聖書を読むと、不思議なことがおこります。聖書が節妙なタイミングで、語りかけてくるのです。その不思議を体験したら、疑問なんてちっぽけなこと、もっと神様を知りたくなります。
生まれたばかりの乳飲み子のように、
純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、
主がいつくしみ深い方であることを
味わっているのです。Ⅰペテロ2章2-3節