2011年11月25日金曜日

第10回 「人間の罪」 出エジプト20章1-17節、マタイ5章21-30節

前回私たちは、「神のかたちが壊れる時」と題して、このように学びました。「善悪というものは、私たちが決めることではありません。たとえ100パーセントは理解できなくても、神様の『ことばと戒め』を畏れることが、神を神とするということであり、善悪の知識の始まりなのです」。でもここで一つの疑問が生まれます。もしそうならば、なぜ神様は人間を、完璧に従うロボットのように創られなかったのでしょうか?それは神様が、人間を、愛し交わる(共に生きる)相手(パートナー)として創られたからです。愛は強制によっては生まれません。あらゆる可能性(時には愛さない選択肢もある中で)愛することを選び取るからこそ、愛には価値があるのです。

しかし人間は、その自由意思をもって罪を犯してしまいました。神のかたちに創られた人間は、多くの能力を任されていました。①被造物を管理する能力。②地上に増え広がり豊かな文化を生み出す創造性。③鼻から「いのち息」を吹き込まれた特別に霊的な存在であり(創2:7)、④神様の価値観(良心)を宿す存在として。でも人間はその特別な能力を「自分の欲望を満足させるため」に用い、しかも用い続けるようになったのです。その結果、神のかたち(神の平和:シャローム)は大きくゆがめられてしまいました。罪の本質とは自己中心です。自分に与えられている賜物や能力を、自分の快楽のために用いたいと思う心のことです。そしてそのためなら、人と神様との関係がどうなってもいいと思う心のことなのです。罪のことを、ギリシャ語ではハマルティアと言いますが、直訳すれば「的外れ」です。本来、神と人を愛するために与えられた能力を、人間は自分のためだけに用いるようになってしまったのです。神様はどんなに悲しいことでしょう。

そんな人間に、神様は十戒を与えられました。これによって、人が神様の前に、何が「罪」なのかを知るためでした。この十戒は大きく前半と後半に分けられます。前半の第1戒から4戒は「神様と人間との関係について」、後半の第5戒から10戒は「人と人との関係について」です。第5戒は前半と後半をつなぐ役割を果たしています。しかもイエスは新約聖書の中でその適用範囲を心の中まで広げられました(マタイ5章)。例えば、心の中でも人を殺してはいけない。腹を立て「能なし」と言う者は、既に心の中で殺人を犯しているのです。また、情欲をいだいて女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯しているのです、と教えられました。もしそうなら、だれが「自分の内には罪がない」と言えるでしょうか(Ⅰヨハネ1章8節)?誤解のないように。神様は「君たちはみんな罪びとだ」と罪悪感で束縛するために、こう言っているのではありません。戒めを与えることで、こわれた人間の社会に秩序を与え、平和(シャローム)を回復しようとされているのです。直接ふれられていませんが、その回復は被造物にまでおよびます(ローマ8:21)。

それでも人間は、自分のことしか考えられませんでした。人間はこの十戒を「自分が裁かれないために」守り行おうとしたのです。言い方を変えれば、自分さえ救われればいいと、律法を守ろうとしました。そればかりか、十戒をはじめとする律法を、知らない人をバカにし、守れない人を裁き、冷たい視線をあびせ、自己満足におちいっていたのです。それは一見、教えを忠実に守る熱心な信仰であるかもしれませんが、その心はまったくの「自己中心」で「的外れ(ハマルティア)」でした。クリスチャンはそうであってはいけません。「自分だけが滅びないために神様を信じる」「自分だけが祝福されるために教会生活を守る」「神様を知らない人や、聖書の教えを守れない人は、裁かれても仕方ない」そういった考えは、すべて「自己中心」で「的外れ」です。十戒は今日も有効で守るべき基準ですが、すべて完璧に守ったとしても、そこに神様と隣人とに対する愛がないなら何にもなりません。かえって有害です。それこそ、神様を深く悲しませる思いです。

もう一度自分の心を点検しましょう。できれば十戒について、もう少し詳しい学びの時をもち、暗記するのが良いでしょう(別テキスト)。きっと、これからの大切な判断基準となるでしょう。それと同時に、あなたの心の中に「愛」があるか点検しましょう?正しいだけでは不十分です。そこに愛が加わり、本当の意味で平和をつくる者とされるのです。しかし愛に生きようとすればするほど、どこまでも自己中心な自分の姿も明らかになることでしょう…。その続きはまた次回。

もし、本当にあなたがたが、聖書に従って、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という
最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、
その人はすべてを犯した者となったのです。
(ヤコブ2章8,10節)

そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、
それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ22章37-40)

第9回 「神のかたちが壊れるとき」 創世記2章16-17節、3章1-19節

前回私たちは、人間が「非常によい(1:31)」「神のかたち(1:26-27)」に創られたことを学びました。つまり、神様の作品として、創造性や管理能力において、また霊的な存在として、素晴らしく創られているということです。聖書にはこうあります。「あなた(神様)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました(詩8:5)」。これは驚くべきことです。また、この「神のかたち」の「かたち」とは、三位一体の神に見られる「関係」のことでもありました。私たちは、大きく分けて4つの関係の中に生かされています。①神様との関係。②自分自身(良心)との関係。③隣人との関係。④被造物との関係(図参照)。この関係が健全に保たれていることが、聖書で言うところの「平和(シャローム)」であり、この平和の中にいる時、私たちは平安を感じるようにつくられているのです。



しかし、この「神のかたち」はあることをきっかけに、大きく歪められてしまいました。それは神様が食べてはならないと言われていた、善悪の知識の木からとって食べたことによってです。もともと神様は、こうおっしゃられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(2:16-17)」。そもそも、神様はなぜそんな木を「園の中央に(3:3)」お創りになったのでしょうか。それはいつも人間が、その木を見て、神様を神様とすることを学ぶためだったのです。善悪というものは、私たちが決めることではありません。たとえ100パーセントは理解できなくても、神様の「ことばと戒め」そして「神様ご自身」を畏れることが善悪の知識の始まりなのです(箴言1:7)。逆に言うと聖書の罪とは、神様(聖書)はこう言っているけど、私はこちらの方が正しいと思うし、私はこうしたいと思うと自分の考えや気持ちを優先するところから始まるのです。

蛇(悪魔)は人を誘惑する天才です。その手口は下記の通りです。①まず「本当にそうですか(3:1)」と神様とその言葉に疑念を抱かせます。②また神様を非常に偏狭な方だと思わせたり、神様に従うことによって自分が損しているように思わせたりします。具体的には「あなたがそれを食べるときに、あなたが神のようになることを知っているのに、それを黙って教えないんだよ」と神様の愛を疑わせるのです(3:4-5)。③そして罪を、いかにも美味しそうに(楽しそうに)見せるのです。罪とは、犯すまでは非常に魅力的なものです。しかし一度犯してしまうと、後悔と、苦々しさが残るのです。もちろん原因は、蛇(悪魔)だけにあるのではありません。エバは神様の言葉を「極端にしたり」「薄めたりして」しまいました。例えば、神様は「触れてもいけない」とはおっしゃってないのに、そう言ったと極端に厳しくしてみたり、肝心なところで「必ず死ぬ」とおっしゃられたのに、「死ぬといけないからだ」と曖昧にしたりして、歪めてしまったのです(3:3)。

その結果、人は多くのものを失いました。①まず神様との関係が壊れ、良くない意味で神様を恐れ、嫌煙するようになりました(3:9-10)。②また心にやましさが生まれ、自分(良心)との関係も壊れてしまいました(3:8)。③隣人との関係も壊れ、互いに訴え合うようになりました。愛し合い、一つとなるはずの夫婦にも、間違った上下関係が生まれました(3:12-13,16)。④そして被造物も人間の罪ゆえに呪われてしまったのです(3:17-18)。人間の自己中心により自然破壊が進み、自然によっても苦しめられるようになりました。まとめると、人間が神のようになり、神様に代わって善悪を判断し始めた結果、「神のかたち」は大きく歪められ、シャローム(平和)も失われ、苦しみと悲しみが全人類に広がったのです。そして何より、人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく「神様との断絶」を意味します。

あなたは、神を神としていますか?そこが崩れるときに、すべてが連鎖的に崩れていくのです。あなたは生きていますか?それとも死んでいますか?肉体のことではありません、魂のことです。

ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、
こうして死が全人類に広がった(ローマ5章12節)

第8回 「神のかたちに創造された人間」 創世記1章24-28節、2章24-25節

私達は、何のために生きているのでしょう?その問いに答えるためには、まず「私達は何のために創造されたのか」また「本来どのような存在として、創造されているのか」という問いに取り組まなければいけません。第6回の 「創造主」の学びでは、こう説明しました。「身の回りの全ての作品には、作った人と、作った人の意図(目的)が存在します。私たちは神様の作品です。ならば、私たちにも創った方がいて、創られた目的があると考えるのは、当然のことではありませんか」。また前回は、このように学びました。「この三位一体の神様は、愛によって一つです。この神様は、あなたとも人格的な交わりを築き、共に人生を歩みたいと願っておられます。実はそれこそ、私たちが創造された目的でもあるのです」。今回はこのテーマを更に深めていきたいと思います。

私達は本来「神のかたち」に創造されました。創世記1章27節にはこう記されています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」。ひと口に「神のかたち」と言っても、そこには色々な意味があります。まず「○○でない」という言い方をすると、これは文字通りの「姿かたち(外見)」のことではありません。すでに第4回でも学んだように「神様は霊であり、形がない」からです。では一体「神のかたち」とは、どういう意味なのでしょうか?そこには「創造性」「管理能力」「霊的(人格的)存在」など、色々な意味が含まれています。「あなた(神様)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました(詩8:5)」。しかし今回はある事に焦点を絞ってお話しいたします。

あらためて「神のかたち」とは、一体どういう意味なのでしょうか?実は、日本語でも同じような表現をします。例えば「新しい夫婦のかたち」とあれば、その「かたち」はどういう意味でしょう?少なくとも「姿かたち」という意味ではありません。その場合の「かたち」は「関係」を意味しています。つまり人が神のかたちに創造されているとは、「人が三位一体の神のかたちに似せて、関係の中で生きる存在として創られている」という意味なのです。「神は人をご自身のかたちとして…男と女とに彼らを創造された」とありますが、三位一体の神様は愛によって一つです。そして、人間も本来、愛によって一つとなる存在として創られているのです。その典型的な例が夫婦です。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである(2:24)」とあります。罪が入る前の人間には、こういった混じりけのない関係の中で生きる存在でした。

その「関係」は、夫婦だけに限定されません。人間は大きく分けて4つの関係に生かされています。①神様との関係。②自分自身(良心)との関係。③隣人との関係。④被造物との関係。人間は本来、この4つの関係に生きる「神のかたち」であり、この関係が健全に保たれている時、私たちは「幸せ」を感じます。ちなみに聖書で言われている「平和(シャローム)」とは、単に「世界人類が平和でありますように」というレベルの話ではなく、この4つの関係が全領域にわたって健全に保たれている状態のことをいいます。そういう視点をもって創世記2章を読むと、エデンの園は「まことにシャローム」であったことが分かります。また聖書には「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)」ともあります。



もう一度、自分自身の状態を振り返ってみましょう。あなたの「神のかたち」は健康に保たれていますか?神様を愛していますか?自分自身を愛していますか?隣人を愛していますか?被造物を愛していますか?あなたは幸せですか?もし幸せでないなら、どの関係に亀裂が入っていますか?あなたはシャローム(平和)に生きるために創られたのです。その平和に生きましょう!

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)