2011年11月25日金曜日

第9回 「神のかたちが壊れるとき」 創世記2章16-17節、3章1-19節

前回私たちは、人間が「非常によい(1:31)」「神のかたち(1:26-27)」に創られたことを学びました。つまり、神様の作品として、創造性や管理能力において、また霊的な存在として、素晴らしく創られているということです。聖書にはこうあります。「あなた(神様)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました(詩8:5)」。これは驚くべきことです。また、この「神のかたち」の「かたち」とは、三位一体の神に見られる「関係」のことでもありました。私たちは、大きく分けて4つの関係の中に生かされています。①神様との関係。②自分自身(良心)との関係。③隣人との関係。④被造物との関係(図参照)。この関係が健全に保たれていることが、聖書で言うところの「平和(シャローム)」であり、この平和の中にいる時、私たちは平安を感じるようにつくられているのです。



しかし、この「神のかたち」はあることをきっかけに、大きく歪められてしまいました。それは神様が食べてはならないと言われていた、善悪の知識の木からとって食べたことによってです。もともと神様は、こうおっしゃられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(2:16-17)」。そもそも、神様はなぜそんな木を「園の中央に(3:3)」お創りになったのでしょうか。それはいつも人間が、その木を見て、神様を神様とすることを学ぶためだったのです。善悪というものは、私たちが決めることではありません。たとえ100パーセントは理解できなくても、神様の「ことばと戒め」そして「神様ご自身」を畏れることが善悪の知識の始まりなのです(箴言1:7)。逆に言うと聖書の罪とは、神様(聖書)はこう言っているけど、私はこちらの方が正しいと思うし、私はこうしたいと思うと自分の考えや気持ちを優先するところから始まるのです。

蛇(悪魔)は人を誘惑する天才です。その手口は下記の通りです。①まず「本当にそうですか(3:1)」と神様とその言葉に疑念を抱かせます。②また神様を非常に偏狭な方だと思わせたり、神様に従うことによって自分が損しているように思わせたりします。具体的には「あなたがそれを食べるときに、あなたが神のようになることを知っているのに、それを黙って教えないんだよ」と神様の愛を疑わせるのです(3:4-5)。③そして罪を、いかにも美味しそうに(楽しそうに)見せるのです。罪とは、犯すまでは非常に魅力的なものです。しかし一度犯してしまうと、後悔と、苦々しさが残るのです。もちろん原因は、蛇(悪魔)だけにあるのではありません。エバは神様の言葉を「極端にしたり」「薄めたりして」しまいました。例えば、神様は「触れてもいけない」とはおっしゃってないのに、そう言ったと極端に厳しくしてみたり、肝心なところで「必ず死ぬ」とおっしゃられたのに、「死ぬといけないからだ」と曖昧にしたりして、歪めてしまったのです(3:3)。

その結果、人は多くのものを失いました。①まず神様との関係が壊れ、良くない意味で神様を恐れ、嫌煙するようになりました(3:9-10)。②また心にやましさが生まれ、自分(良心)との関係も壊れてしまいました(3:8)。③隣人との関係も壊れ、互いに訴え合うようになりました。愛し合い、一つとなるはずの夫婦にも、間違った上下関係が生まれました(3:12-13,16)。④そして被造物も人間の罪ゆえに呪われてしまったのです(3:17-18)。人間の自己中心により自然破壊が進み、自然によっても苦しめられるようになりました。まとめると、人間が神のようになり、神様に代わって善悪を判断し始めた結果、「神のかたち」は大きく歪められ、シャローム(平和)も失われ、苦しみと悲しみが全人類に広がったのです。そして何より、人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく「神様との断絶」を意味します。

あなたは、神を神としていますか?そこが崩れるときに、すべてが連鎖的に崩れていくのです。あなたは生きていますか?それとも死んでいますか?肉体のことではありません、魂のことです。

ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、
こうして死が全人類に広がった(ローマ5章12節)