少し間が開いてしまったので復習をしましょう。神様がこの世をお創りになった時「それは非常に良かった(創1:31)」。神様はエデンの園を造り、そこに「神のかたちに」人を創造された(1:27,2:8)。神のかたちとは、三位一体の神が、愛と調和の中に生きておられように、私たちも「関係」の中で生きる存在であることを意味していました。具体的には、神様との関係、自分自身との関係、隣人との関係、被造物との関係。この4つの関係に調和が保たれている時、人は「幸せ」を感じ、またその状態が保たれていることを「神の平和(シャローム)」と言いました。
でも人間の罪ゆえに、その平和はこわれてしまいました(創3章)。罪とは言い方を変えれば「自己中心」です。「神様なんかいらない」「私の人生は私の好きなようにする」「神様の言葉に従いたくない」という心のことです。エバも神様の戒めを破り、自分の欲に従いました。アダムもそれに続き、人類に罪が入ってきたのです。彼らの子カインはアベルを殺し(4章)、地に悪がはびこり(6章)、人は創造された時とは程遠い「的外れ」な存在となってしまいました。神様はそんな人間のために、律法(十戒)を与えられました(出12章)。それによって、秩序を与え、失われた平和を取り戻すためです。しかし人間は律法に従えないばかりか、律法を捻じ曲げ(マコ7:13)、本来、神を愛し、隣人を愛するための律法を、自分の義を建てるための道具としてしまったのです。ギリシャ語で「罪」のことをハマルティアと言いますが、彼らの姿勢こそ「的外れ」でした。
そんな時代にイエス様がお生まれになりました。それまで、神様に従う多くの預言者が、神様のメッセージを届けようとしましたが、ひどい扱いを受け、殺されてしまいました。そこで神様は「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう(マタイ21:37)」と遣わされたのです。イエス様は、神のひとり子であり(100%の神)、肉体的には、おとめマリヤより生まれた人の子でした(100%の人)。何のために、お生まれになってくださったのでしょうか?それは、神様の意図(的・まと)を大きく外れ、神様の目から見たら「失われた人」を捜して救うために来られたのです(ルカ19:10)。イエス様は生まれてすぐヘロデの迫害を逃れエジプトで暮らし、ヘロデが死んでからは小さな田舎のナザレで、大工ヨセフの子として家を助け、ヨセフとマリヤの間に生まれた兄弟たちの面倒を見られました(ルカ2:51-52,マコ6:3)。そして30歳の時、ついに公生涯を始められたのです。
第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(マコ1:15)」でした。イエス様の福音の中心は「神の国」です。神の国とは何でしょう?「時が満ち」とはどういうことでしょう?イエス様の時代までに、イスラエルの12部族は度重なる捕囚によってバラバラにされていました。信仰的にも自分たちが神の民であるという自覚(アイデンティティー)を失い、他宗教と混じり合っているか、パリサイ人や律法学者たちのように、やたら細かくて厳格な律法主義と化していました(マタイ23章)。そして国の主権を失いローマ帝国に支配されていました。でもそれこそ「神の時」でした。イエス様はまず12弟子を選び、彼らを元に、血筋によらない、信仰と御霊による「新しい神の民」を創造され始めたのです。それによって失われた平和を取り戻し、神の愛と義(正義)が支配する、新しい共同体を創造するためです。その国の律法は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ22:37-39)」に集約されました。世界再創造の壮大な計画の始まりです!
イエス様の教えは権威に満ちていました。その教えを聴くだけで、人々は権威に圧倒されました。神の国は、人の熱心や努力によって成し遂げられるものではありません。もともと罪によって、神のかたち(平和)は失われましたし、その罪を植え付けたのはサタンでした。そうなら、神の国が実現するためには、まずサタンの力を打ち砕き、罪を赦し、人間を新しく生まれ変わらせる力が必要なのです。イエス様にはその権威がありました。聖書にはこうあります。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです(マタイ12:28)」。イエス様のまかれた神の国の種が、大きく成長し始めました。
イエス様には権威があります。色々な力に押しつぶされそうになったり、負けそうになったりしてしまうこともありますが、イエス様の権威を思い出して、より頼む者になりたいと思います。
神の国はことばにはなく、力にあるのです。
(Ⅰコリント4章20節)
2012年1月31日火曜日
2012年1月13日金曜日
第12回 「まことの神、まことの人」 ヨハネ1章1-14節、コロサイ1章9-23節
前回私たちは「メシア預言」について学びました。例えばイザヤ9章14節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。この預言は紀元前8世紀に書かれたものです。イエスキリストは、偶然や人の思いつきによって生まれたのではなく、神様の定めによってお生まれになった、来るべき「救い主(メシア)」であったのです。
イエス・キリストは、まことの神(100%の神)であられました。ヨハネ福音書の冒頭にはこう言われています。「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(1:1)」。またコロサイ人への手紙にはこうあります。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです(1:15-16)」。さらにイエス様ご自身こう証言されています。「わたしを見た者は、父(父なる神)を見たのです(ヨハネ14:9)」。「わたしと父は一つです(10:30)」。
その、まことの神が、まことの人(100%の人)となられました。それが世界ではじめのクリスマスです。イエス様は、肉体としては人間と全く同じようになられました。しかも無力な赤ちゃんとして、貧しい家畜小屋にお生まれになってくださいました(ルカ2:7)。これは本当に不思議なことです。神様の世界、すなわち「永遠」というものが、どのような世界であるのか、私たちには想像もできませんが、きっと時間の制約もなく、肉体的な制約(物質的・空間的な制限や不自由さ)もないことでしょう。そんな世界から、私たちと同じこの世界にお生まれになってくださったのです。本来、水と油、絶対に交わることのない、二つの世界が、イエス・キリストにおいて「完全にひとつ」となりました。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人なのです。
そのことが、イエス・キリストとの名前にも表れています。よくイエスが名前で、キリストが名字であると誤解されていますが、そうではありません。イエスは名前で、キリストは「油注がれた者、すなわちメシヤ(救い主)」という意味です。つまり、イエス・キリストとお呼びするだけで、「このイエスというお方は、私の救い主である」と信仰告白をすることになるのです。しかも、「イエス」という名は当時、非常にありふれた名前のひとつでした。日本で言えば太郎君とでもいいましょうか。しかも、あのバラバ(イエスの代わりに釈放された犯罪人)もイエスという名前であったと言われています。新共同訳聖書ではこう訳されています。「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』(マタイ27:17)」。この名前を付けられたのは、神様ご自身でした。夢の中で主の使いが現れてこう言うのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ1:21)」。なぜ、この名前なのでしょうか?
それは神のひとり子が、もっとも小さい者のひとりとなられたからです。イエス様は当時、もっともありふれた人のようになり、もっとも罪深い者と同じ名前を名乗られました。それは全ての点で私たちと同じようになり、本当の意味で救うためだったのです。聖書にはこうあります。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル2:14)」。逆に言えば、だからイエス様には人を救うことがおできになるのです。まことの神として罪を赦す権威をもちながら、私たちの弱さに同情してくださる、友としての神様なのです(ヨハネ15:15)。
神が人となられたのであり、人が神となったのではありません。日本の宗教においては、人が神に祭り上げられることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストは根本的に違っています。イエス・キリストは、失われた人を、捜して救うために、人の子となってくださったのです。
キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
ピリピ2章6-7節
イエス・キリストは、まことの神(100%の神)であられました。ヨハネ福音書の冒頭にはこう言われています。「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(1:1)」。またコロサイ人への手紙にはこうあります。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです(1:15-16)」。さらにイエス様ご自身こう証言されています。「わたしを見た者は、父(父なる神)を見たのです(ヨハネ14:9)」。「わたしと父は一つです(10:30)」。
その、まことの神が、まことの人(100%の人)となられました。それが世界ではじめのクリスマスです。イエス様は、肉体としては人間と全く同じようになられました。しかも無力な赤ちゃんとして、貧しい家畜小屋にお生まれになってくださいました(ルカ2:7)。これは本当に不思議なことです。神様の世界、すなわち「永遠」というものが、どのような世界であるのか、私たちには想像もできませんが、きっと時間の制約もなく、肉体的な制約(物質的・空間的な制限や不自由さ)もないことでしょう。そんな世界から、私たちと同じこの世界にお生まれになってくださったのです。本来、水と油、絶対に交わることのない、二つの世界が、イエス・キリストにおいて「完全にひとつ」となりました。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人なのです。
そのことが、イエス・キリストとの名前にも表れています。よくイエスが名前で、キリストが名字であると誤解されていますが、そうではありません。イエスは名前で、キリストは「油注がれた者、すなわちメシヤ(救い主)」という意味です。つまり、イエス・キリストとお呼びするだけで、「このイエスというお方は、私の救い主である」と信仰告白をすることになるのです。しかも、「イエス」という名は当時、非常にありふれた名前のひとつでした。日本で言えば太郎君とでもいいましょうか。しかも、あのバラバ(イエスの代わりに釈放された犯罪人)もイエスという名前であったと言われています。新共同訳聖書ではこう訳されています。「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』(マタイ27:17)」。この名前を付けられたのは、神様ご自身でした。夢の中で主の使いが現れてこう言うのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ1:21)」。なぜ、この名前なのでしょうか?
それは神のひとり子が、もっとも小さい者のひとりとなられたからです。イエス様は当時、もっともありふれた人のようになり、もっとも罪深い者と同じ名前を名乗られました。それは全ての点で私たちと同じようになり、本当の意味で救うためだったのです。聖書にはこうあります。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル2:14)」。逆に言えば、だからイエス様には人を救うことがおできになるのです。まことの神として罪を赦す権威をもちながら、私たちの弱さに同情してくださる、友としての神様なのです(ヨハネ15:15)。
神が人となられたのであり、人が神となったのではありません。日本の宗教においては、人が神に祭り上げられることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストは根本的に違っています。イエス・キリストは、失われた人を、捜して救うために、人の子となってくださったのです。
キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
ピリピ2章6-7節
第11回 「メシア預言とその成就」 イザヤ書9章2-7節、7章14節、53章1-12節
前回私たちは「人間の罪」について学びました。罪の本質とは自己中心です。それは自分に与えられた賜物や能力を、ひたすら自分のため用いたいと思う心のことです。そして自分と自分の欲望が、神のようになっていくのです。この罪によって「平和(シャローム)」は大きく歪められてしまいました。そんな人間に、神様は「十戒・律法」をお与えになりました。それによって、人間が「何が罪なのか」を知り、崩れてしまった「平和」を回復するためでした。また、その律法の究極の目的は「神様と愛し、隣人を愛する」ことでした。しかし人間は、その十戒さえも、ただ自分のために用いるようになってしまったのです。つまり「自分が裁かれないために」十戒は守らなきゃいけないのであって、自由に生きている人を妬み、裁き、自分はそうじゃないと自己満足におちいっていたのです。これはよく見過ごされることですが、十戒を破ることはもちろん問題です。しかし、後者の偽善も同じくらい大きな問題だということを忘れてはいけません。
そんな人間のために、神様は、ついにご自分のひとり子をこの世に遣わされました。それによって、何とかこの地に「平和」を回復するためです。その方こそイエス・キリストです。この方については、第7回の「三位一体」のところでこのように学びました。「創世記に、世を創造された神様のことが「われわれ」と複数形で記されています。それは父なる神と、聖霊なる神とともに、イエスキリストも、創造のはじめから存在しておられる神様の一人格だからです(ヨハネ1:1-3)。キリストは単なる、『賢人』とか『預言者』以上のお方であり、じつに「神のひとり子(三位一体の神の第2位格)」なのです」。しかもこの方は「神のひとり子」であるのに、なんと「人の子として」この世にお生まれになりました。聖書にはこのように書かれています。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14)」。
このことはキリストが生まれる前に書かれた旧約聖書の中に、何度も預言されています。紀元前8世紀に書かれたイザヤ書にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(9:6)」。またこうともあります。「それゆえ主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(7:14 参照マタイ1:23)」。しかも死に方まで!「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(53:5,7)」。またイザヤ書の少し後に書かれたミカ書には、生まれる場所まで預言さえています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ(5:2,4)」。
日本人の中には、イエスキリストを、歴史上の人物と思っていない人がいます。しかし本当にいたのです。紀元37年に生まれたヨセフォスという歴史家は「ユダヤ古代史」の中で中立的にこう記しています。「ピラトは、イエスがユダヤ人の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。なお彼によってキリスト者と名付けられた族(やから)は今もなお消え失せていない(ユダヤ古代史18:63)」。その他にも、イエスキリストの実在はクリスチャンに対して批判的な学者や人物によっても書き残されています。例:タキトゥス紀元(1世紀)、ユダア人の口伝の律法書紀元(1-2世紀)
イエスキリストは、クリスチャンの信仰の対象であるとともに、歴史上の事実でもあります。この事実は、すべて旧約聖書の預言に基づいています。なぜなら、この方こそ、来るべき救い主だからです。あなたはこのことをどう受け止めますか?事実は信仰によって真実となるのです。
マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
このすべての出来事は、
主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
マタイ1:21-22
そんな人間のために、神様は、ついにご自分のひとり子をこの世に遣わされました。それによって、何とかこの地に「平和」を回復するためです。その方こそイエス・キリストです。この方については、第7回の「三位一体」のところでこのように学びました。「創世記に、世を創造された神様のことが「われわれ」と複数形で記されています。それは父なる神と、聖霊なる神とともに、イエスキリストも、創造のはじめから存在しておられる神様の一人格だからです(ヨハネ1:1-3)。キリストは単なる、『賢人』とか『預言者』以上のお方であり、じつに「神のひとり子(三位一体の神の第2位格)」なのです」。しかもこの方は「神のひとり子」であるのに、なんと「人の子として」この世にお生まれになりました。聖書にはこのように書かれています。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14)」。
このことはキリストが生まれる前に書かれた旧約聖書の中に、何度も預言されています。紀元前8世紀に書かれたイザヤ書にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(9:6)」。またこうともあります。「それゆえ主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(7:14 参照マタイ1:23)」。しかも死に方まで!「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(53:5,7)」。またイザヤ書の少し後に書かれたミカ書には、生まれる場所まで預言さえています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ(5:2,4)」。
日本人の中には、イエスキリストを、歴史上の人物と思っていない人がいます。しかし本当にいたのです。紀元37年に生まれたヨセフォスという歴史家は「ユダヤ古代史」の中で中立的にこう記しています。「ピラトは、イエスがユダヤ人の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。なお彼によってキリスト者と名付けられた族(やから)は今もなお消え失せていない(ユダヤ古代史18:63)」。その他にも、イエスキリストの実在はクリスチャンに対して批判的な学者や人物によっても書き残されています。例:タキトゥス紀元(1世紀)、ユダア人の口伝の律法書紀元(1-2世紀)
イエスキリストは、クリスチャンの信仰の対象であるとともに、歴史上の事実でもあります。この事実は、すべて旧約聖書の預言に基づいています。なぜなら、この方こそ、来るべき救い主だからです。あなたはこのことをどう受け止めますか?事実は信仰によって真実となるのです。
マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
このすべての出来事は、
主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
マタイ1:21-22
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