2012年1月31日火曜日

第13回 「イエスの生涯―神の国の福音」 マルコ1章1-27節

少し間が開いてしまったので復習をしましょう。神様がこの世をお創りになった時「それは非常に良かった(創1:31)」。神様はエデンの園を造り、そこに「神のかたちに」人を創造された(1:27,2:8)。神のかたちとは、三位一体の神が、愛と調和の中に生きておられように、私たちも「関係」の中で生きる存在であることを意味していました。具体的には、神様との関係、自分自身との関係、隣人との関係、被造物との関係。この4つの関係に調和が保たれている時、人は「幸せ」を感じ、またその状態が保たれていることを「神の平和(シャローム)」と言いました。

でも人間の罪ゆえに、その平和はこわれてしまいました(創3章)。罪とは言い方を変えれば「自己中心」です。「神様なんかいらない」「私の人生は私の好きなようにする」「神様の言葉に従いたくない」という心のことです。エバも神様の戒めを破り、自分の欲に従いました。アダムもそれに続き、人類に罪が入ってきたのです。彼らの子カインはアベルを殺し(4章)、地に悪がはびこり(6章)、人は創造された時とは程遠い「的外れ」な存在となってしまいました。神様はそんな人間のために、律法(十戒)を与えられました(出12章)。それによって、秩序を与え、失われた平和を取り戻すためです。しかし人間は律法に従えないばかりか、律法を捻じ曲げ(マコ7:13)、本来、神を愛し、隣人を愛するための律法を、自分の義を建てるための道具としてしまったのです。ギリシャ語で「罪」のことをハマルティアと言いますが、彼らの姿勢こそ「的外れ」でした。

そんな時代にイエス様がお生まれになりました。それまで、神様に従う多くの預言者が、神様のメッセージを届けようとしましたが、ひどい扱いを受け、殺されてしまいました。そこで神様は「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう(マタイ21:37)」と遣わされたのです。イエス様は、神のひとり子であり(100%の神)、肉体的には、おとめマリヤより生まれた人の子でした(100%の人)。何のために、お生まれになってくださったのでしょうか?それは、神様の意図(的・まと)を大きく外れ、神様の目から見たら「失われた人」を捜して救うために来られたのです(ルカ19:10)。イエス様は生まれてすぐヘロデの迫害を逃れエジプトで暮らし、ヘロデが死んでからは小さな田舎のナザレで、大工ヨセフの子として家を助け、ヨセフとマリヤの間に生まれた兄弟たちの面倒を見られました(ルカ2:51-52,マコ6:3)。そして30歳の時、ついに公生涯を始められたのです。

第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(マコ1:15)」でした。イエス様の福音の中心は「神の国」です。神の国とは何でしょう?「時が満ち」とはどういうことでしょう?イエス様の時代までに、イスラエルの12部族は度重なる捕囚によってバラバラにされていました。信仰的にも自分たちが神の民であるという自覚(アイデンティティー)を失い、他宗教と混じり合っているか、パリサイ人や律法学者たちのように、やたら細かくて厳格な律法主義と化していました(マタイ23章)。そして国の主権を失いローマ帝国に支配されていました。でもそれこそ「神の時」でした。イエス様はまず12弟子を選び、彼らを元に、血筋によらない、信仰と御霊による「新しい神の民」を創造され始めたのです。それによって失われた平和を取り戻し、神の愛と義(正義)が支配する、新しい共同体を創造するためです。その国の律法は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ22:37-39)」に集約されました。世界再創造の壮大な計画の始まりです!

イエス様の教えは権威に満ちていました。その教えを聴くだけで、人々は権威に圧倒されました。神の国は、人の熱心や努力によって成し遂げられるものではありません。もともと罪によって、神のかたち(平和)は失われましたし、その罪を植え付けたのはサタンでした。そうなら、神の国が実現するためには、まずサタンの力を打ち砕き、罪を赦し、人間を新しく生まれ変わらせる力が必要なのです。イエス様にはその権威がありました。聖書にはこうあります。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです(マタイ12:28)」。イエス様のまかれた神の国の種が、大きく成長し始めました。

イエス様には権威があります。色々な力に押しつぶされそうになったり、負けそうになったりしてしまうこともありますが、イエス様の権威を思い出して、より頼む者になりたいと思います。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。
(Ⅰコリント4章20節)