2012年1月13日金曜日

第11回 「メシア預言とその成就」 イザヤ書9章2-7節、7章14節、53章1-12節

前回私たちは「人間の罪」について学びました。罪の本質とは自己中心です。それは自分に与えられた賜物や能力を、ひたすら自分のため用いたいと思う心のことです。そして自分と自分の欲望が、神のようになっていくのです。この罪によって「平和(シャローム)」は大きく歪められてしまいました。そんな人間に、神様は「十戒・律法」をお与えになりました。それによって、人間が「何が罪なのか」を知り、崩れてしまった「平和」を回復するためでした。また、その律法の究極の目的は「神様と愛し、隣人を愛する」ことでした。しかし人間は、その十戒さえも、ただ自分のために用いるようになってしまったのです。つまり「自分が裁かれないために」十戒は守らなきゃいけないのであって、自由に生きている人を妬み、裁き、自分はそうじゃないと自己満足におちいっていたのです。これはよく見過ごされることですが、十戒を破ることはもちろん問題です。しかし、後者の偽善も同じくらい大きな問題だということを忘れてはいけません。

そんな人間のために、神様は、ついにご自分のひとり子をこの世に遣わされました。それによって、何とかこの地に「平和」を回復するためです。その方こそイエス・キリストです。この方については、第7回の「三位一体」のところでこのように学びました。「創世記に、世を創造された神様のことが「われわれ」と複数形で記されています。それは父なる神と、聖霊なる神とともに、イエスキリストも、創造のはじめから存在しておられる神様の一人格だからです(ヨハネ1:1-3)。キリストは単なる、『賢人』とか『預言者』以上のお方であり、じつに「神のひとり子(三位一体の神の第2位格)」なのです」。しかもこの方は「神のひとり子」であるのに、なんと「人の子として」この世にお生まれになりました。聖書にはこのように書かれています。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14)」。

このことはキリストが生まれる前に書かれた旧約聖書の中に、何度も預言されています。紀元前8世紀に書かれたイザヤ書にはこうあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(9:6)」。またこうともあります。「それゆえ主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(7:14 参照マタイ1:23)」。しかも死に方まで!「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(53:5,7)」。またイザヤ書の少し後に書かれたミカ書には、生まれる場所まで預言さえています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ(5:2,4)」。

日本人の中には、イエスキリストを、歴史上の人物と思っていない人がいます。しかし本当にいたのです。紀元37年に生まれたヨセフォスという歴史家は「ユダヤ古代史」の中で中立的にこう記しています。「ピラトは、イエスがユダヤ人の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。なお彼によってキリスト者と名付けられた族(やから)は今もなお消え失せていない(ユダヤ古代史18:63)」。その他にも、イエスキリストの実在はクリスチャンに対して批判的な学者や人物によっても書き残されています。例:タキトゥス紀元(1世紀)、ユダア人の口伝の律法書紀元(1-2世紀)

イエスキリストは、クリスチャンの信仰の対象であるとともに、歴史上の事実でもあります。この事実は、すべて旧約聖書の預言に基づいています。なぜなら、この方こそ、来るべき救い主だからです。あなたはこのことをどう受け止めますか?事実は信仰によって真実となるのです。

マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
このすべての出来事は、
主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
マタイ1:21-22