前回私たちは「メシア預言」について学びました。例えばイザヤ9章14節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。この預言は紀元前8世紀に書かれたものです。イエスキリストは、偶然や人の思いつきによって生まれたのではなく、神様の定めによってお生まれになった、来るべき「救い主(メシア)」であったのです。
イエス・キリストは、まことの神(100%の神)であられました。ヨハネ福音書の冒頭にはこう言われています。「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(1:1)」。またコロサイ人への手紙にはこうあります。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです(1:15-16)」。さらにイエス様ご自身こう証言されています。「わたしを見た者は、父(父なる神)を見たのです(ヨハネ14:9)」。「わたしと父は一つです(10:30)」。
その、まことの神が、まことの人(100%の人)となられました。それが世界ではじめのクリスマスです。イエス様は、肉体としては人間と全く同じようになられました。しかも無力な赤ちゃんとして、貧しい家畜小屋にお生まれになってくださいました(ルカ2:7)。これは本当に不思議なことです。神様の世界、すなわち「永遠」というものが、どのような世界であるのか、私たちには想像もできませんが、きっと時間の制約もなく、肉体的な制約(物質的・空間的な制限や不自由さ)もないことでしょう。そんな世界から、私たちと同じこの世界にお生まれになってくださったのです。本来、水と油、絶対に交わることのない、二つの世界が、イエス・キリストにおいて「完全にひとつ」となりました。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人なのです。
そのことが、イエス・キリストとの名前にも表れています。よくイエスが名前で、キリストが名字であると誤解されていますが、そうではありません。イエスは名前で、キリストは「油注がれた者、すなわちメシヤ(救い主)」という意味です。つまり、イエス・キリストとお呼びするだけで、「このイエスというお方は、私の救い主である」と信仰告白をすることになるのです。しかも、「イエス」という名は当時、非常にありふれた名前のひとつでした。日本で言えば太郎君とでもいいましょうか。しかも、あのバラバ(イエスの代わりに釈放された犯罪人)もイエスという名前であったと言われています。新共同訳聖書ではこう訳されています。「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』(マタイ27:17)」。この名前を付けられたのは、神様ご自身でした。夢の中で主の使いが現れてこう言うのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ1:21)」。なぜ、この名前なのでしょうか?
それは神のひとり子が、もっとも小さい者のひとりとなられたからです。イエス様は当時、もっともありふれた人のようになり、もっとも罪深い者と同じ名前を名乗られました。それは全ての点で私たちと同じようになり、本当の意味で救うためだったのです。聖書にはこうあります。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル2:14)」。逆に言えば、だからイエス様には人を救うことがおできになるのです。まことの神として罪を赦す権威をもちながら、私たちの弱さに同情してくださる、友としての神様なのです(ヨハネ15:15)。
神が人となられたのであり、人が神となったのではありません。日本の宗教においては、人が神に祭り上げられることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストは根本的に違っています。イエス・キリストは、失われた人を、捜して救うために、人の子となってくださったのです。
キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
ピリピ2章6-7節