前回はイエス様の「たとえ話」について学びました。その内の一つは「放蕩息子(失われた二人の息子と、父の愛の物語)」でした。家を飛び出し、放蕩し、故郷に帰ってきた弟息子を、父は自ら走り寄り、抱きしめ、最高のもてなしをしたのです。実に感動的なシーンでした。しかし、決して罪がチャラ(ご破算)になったわけではありません。物語には登場していませんが、その背後には「良い兄」の存在があったことを話しました。その良い兄は、遠い国の弟を探しに行き、一緒に住み、罪と負債をすべて肩代わりし、弟をまっさら(一点の汚れもない)な存在にして父のみもとに返して下さったのです。たとえ自分は父から見捨てられた者となっても…。その良い兄こそ、イエス様でした。今回からは、このイエス様の贖罪(しょくざい)について学びます。
イエス様が私たちの罪を贖(あがな)ってくださった、とはどういう意味なのでしょうか?直接の意味は、イエス様が身代わりとなってくださったことによって、私たちの罪は赦された、という意味です。聖書にはこうあります。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(Ⅰペテロ 2:24)」。また「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。しかし、この話しをしましたら、ある方(求道者)からこんな質問を受けました。「どうして罪の赦しのためには、身代りとか、いのちの犠牲が必要なのですか」。確かにそう思うのは当然です。そのことを理解するためには、少しばかり旧約聖書の知識がいるのではないでしょうか。
「旧約」の「約」は「契約」の「約」です。神様が人間と結ばれた、もともとの契約を「旧約」といい、イエス様の十字架以降、更新された契約を「新約」というのです。古い契約においては、十戒をはじめとする律法を守ることによって祝福されるという約束でした。その律法を破ることを「罪」というのですが、その罪は「いけにえを捧げることによって赦される」(ただし故意の殺人などの場合には自分の命をもって償わなくてはならない)と教えられています(出29-30章、レビ記1-7章、民28-29章)。そのため旧約時代には、毎日、安息日ごと、年に一度など、事あるごとにおびただしい数のいけにえが捧げられていました。それによって人々は、罪の赦しが決して軽々しいものではなく、犠牲の伴うものなのだということと、神の基準の高さを学んでいったのです。またその際、興味深いことが行われました。罪の赦しを求める人がいけにえを捧げる際、また祭司が民を代表して罪の赦しを祈る際、そのいけにえの頭の上に手を置き、自分たちの罪を負わせました。それによって、本来、自分たちが受けるべき裁きの、身代わりとするためでした。
でもイエス様は、私たちの罪のために、自ら進んで、いけにえの小羊となってくださいました。イザヤ書にはこうあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた(53:6)」。興味深いことに、イエス様が十字架にかかられたのは、過越の祭りの前日でした(ヨハネ19:14)。この日は特別な日で、イスラエルがエジプトを脱出する際の出来事に関連しています。パロは心をかたくなにし、なかなかイスラエルを去らせませんでした。そこで神様は、そんなパロの心を変えるため、エジプトに十の災いを下されたのです(7-12章)。そして最後の災いは、エジプト中の初子を家畜に至るまで打つというものでした。しかし神様の約束を信じ、門柱とかもいに小羊の血を塗った家は助かったのです。イエス様が十字架にかかられたのも「この日」でした!これは神様のご計画によります。このことが分かった時、鳥肌が立つくらいに感動しました。今日も、信仰によって、心にイエス様の十字架の血を塗られた者は、罪に定められることは決してないのです(ロマ8:1)。
このイエス様の十字架から、全く新しい時代が始まりました。イエス様ご自身が、ただ一度、完全な、いけにえとなってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです。昔の人は、手を置くことによって罪を動物に負わせましたが、私たちは信仰によって、時代を超えて、この十字架のイエス様と一つされるのです。そして古い自分に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。ここに本当の希望があります。十字架については、来週も学びます。
その翌日、(バプテスマの)ヨハネは
自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
ヨハネ1章29節
2012年2月23日木曜日
2012年2月18日土曜日
第15回 「イエスの生涯―たとえ話」 ルカ15章
前回はイエス様の奇跡について学びました。その際、聖書には読み方があることを教えられました。例えば、五千人の給食の奇跡にしても、水上歩行の奇跡にしても、それが「本当か嘘か」と読むのではなく、そこに書かれている意味をしっかり読み取ることが大切であると学びました。その時、聖書の奇跡は単なる2000年前の出来事ではなく、私たちの心に迫ってくる霊的な現実(信仰の教訓)となるのです。今日は、奇跡と並んでイエス様の宣教に特徴的なことです。それは、たとえ話についてです。特に有名な「放蕩息子のたとえ」からともに教えられましょう。
事の発端は弟のひと言です。「お父さん私に財産の分け前をください」。財産とは普通、父が亡くなった後に分け与えられるべきものです。しかし弟はまだ父が生きているのに、分与を望んだのです。つまりこういうことです。「お父さん、あなたに興味はありませんが、あなたのお金に興味があります。財産を分けてください。あとはわたしの好きにしますから」。普通の父だったら怒るのではないでしょうか?勘当されても仕方ありません。でも父は(内面に深い葛藤があったと思いますが)それをすんなり渡してしまうのです。そして弟は遠くへ旅立ち、そこで財産を湯水のように使ってしまうのです。どん底まで落ち、彼はハッと我に返ります。そして父のもとへ帰る決心をします。しかし道半にして、お父さんが弟を見つけ走り寄ります。感動的なシーンです。そして父は最上級のもてなしをし、息子の手に指輪をはめ宴会を開きます。雇い人なんかではない、息子としての立場が一方的なあわれみで回復されたことを意味しています。このように神様は、どんなに神様から遠く離れた人生を送ってきた人も、救い、子としてくださるのです。
ここで兄が登場します。兄は怒って家に入ろうともしませんでした。そしてこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」。兄にはどうしてもわかりませんでした。好き勝手にして、帰ってきた弟が、当然のように迎え入れられることが。「だったら真面目にお父さんに仕えてきた自分がバカみたいじゃないか」とも言わんばかりです。つまりこの兄も、べつに、お父さんを愛し仕えてきたわけではないのです。言ってみれば全ては「自分のため」でした。なのに好き放題やってきた弟が同じように愛され祝福されているのが我慢ならなかったのです。父親から見れば、弟だけでなく、この兄も失われた息子でした。心が失われていた。一緒にいたけど、心は遠く離れていたのです。彼もまた悔い改めて、祝宴に加わり、お父さんの前に膝まずき、悔い改めるべきだったのです。
そもそもこのたとえ話は兄タイプの人に語られたものでした。15章は、罪人とイエス様が食事をすることに、つぶやくパリサイ人や律法学者たちの姿で始まっています。罪人とは弟タイプのこと、そしてパリサイ人や律法学者は「正しすぎる」兄タイプのことです。この放蕩息子のたとえ話には一人の人物が隠されています。1から13節のたとえ話しには共通項があります。九十九匹を残して一匹を探す羊飼いの姿。銀貨十枚のうち亡くした一枚を必死に探す女の姿。でも放蕩息子のお父さんは、弟の帰郷を喜び走り寄りましたが、基本的に待っていました。この話には「必死に探して連れ戻す人物(本来、兄が取るべきだった行動)」が意図的に隠されているのです。じつは、それこそイエス様なのです。イエス様は、放蕩息子のように、父の愛が分からず、父の愛からさまよい出て、自分勝手に生きていたわたしたちを、捜して救うためにこの世にお生まれになりました。そして十字架にかかり、その血で私たちの罪を洗い、父のもとに帰る準備をすべて整えて下さったのです。イエス様こそ私たちにとって良い兄なのです。イエス様はあえてそれを隠すことによって、かえって際(きわ)立たせ、人々が後に思い出して気づくようにされたのです。
イエス様のたとえ話は、物語としてはすんなり心に入ってくるでしょう。しかしその背後には、深い霊的な意味が隠されています。イエス様の十字架についてはまた次回お話しします。あなたは弟タイプでしょうか兄タイプでしょうか?もし神様に逆らって歩んできたのなら今すぐ悔い改めて父のもとに帰りましょう。または兄タイプなら正しすぎるのも問題です。あなたは人を裁いていませんか、赦していない人がいませんか?あなたもまた神様に立ち返る必要があるのです。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8章29節
事の発端は弟のひと言です。「お父さん私に財産の分け前をください」。財産とは普通、父が亡くなった後に分け与えられるべきものです。しかし弟はまだ父が生きているのに、分与を望んだのです。つまりこういうことです。「お父さん、あなたに興味はありませんが、あなたのお金に興味があります。財産を分けてください。あとはわたしの好きにしますから」。普通の父だったら怒るのではないでしょうか?勘当されても仕方ありません。でも父は(内面に深い葛藤があったと思いますが)それをすんなり渡してしまうのです。そして弟は遠くへ旅立ち、そこで財産を湯水のように使ってしまうのです。どん底まで落ち、彼はハッと我に返ります。そして父のもとへ帰る決心をします。しかし道半にして、お父さんが弟を見つけ走り寄ります。感動的なシーンです。そして父は最上級のもてなしをし、息子の手に指輪をはめ宴会を開きます。雇い人なんかではない、息子としての立場が一方的なあわれみで回復されたことを意味しています。このように神様は、どんなに神様から遠く離れた人生を送ってきた人も、救い、子としてくださるのです。
ここで兄が登場します。兄は怒って家に入ろうともしませんでした。そしてこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」。兄にはどうしてもわかりませんでした。好き勝手にして、帰ってきた弟が、当然のように迎え入れられることが。「だったら真面目にお父さんに仕えてきた自分がバカみたいじゃないか」とも言わんばかりです。つまりこの兄も、べつに、お父さんを愛し仕えてきたわけではないのです。言ってみれば全ては「自分のため」でした。なのに好き放題やってきた弟が同じように愛され祝福されているのが我慢ならなかったのです。父親から見れば、弟だけでなく、この兄も失われた息子でした。心が失われていた。一緒にいたけど、心は遠く離れていたのです。彼もまた悔い改めて、祝宴に加わり、お父さんの前に膝まずき、悔い改めるべきだったのです。
そもそもこのたとえ話は兄タイプの人に語られたものでした。15章は、罪人とイエス様が食事をすることに、つぶやくパリサイ人や律法学者たちの姿で始まっています。罪人とは弟タイプのこと、そしてパリサイ人や律法学者は「正しすぎる」兄タイプのことです。この放蕩息子のたとえ話には一人の人物が隠されています。1から13節のたとえ話しには共通項があります。九十九匹を残して一匹を探す羊飼いの姿。銀貨十枚のうち亡くした一枚を必死に探す女の姿。でも放蕩息子のお父さんは、弟の帰郷を喜び走り寄りましたが、基本的に待っていました。この話には「必死に探して連れ戻す人物(本来、兄が取るべきだった行動)」が意図的に隠されているのです。じつは、それこそイエス様なのです。イエス様は、放蕩息子のように、父の愛が分からず、父の愛からさまよい出て、自分勝手に生きていたわたしたちを、捜して救うためにこの世にお生まれになりました。そして十字架にかかり、その血で私たちの罪を洗い、父のもとに帰る準備をすべて整えて下さったのです。イエス様こそ私たちにとって良い兄なのです。イエス様はあえてそれを隠すことによって、かえって際(きわ)立たせ、人々が後に思い出して気づくようにされたのです。
イエス様のたとえ話は、物語としてはすんなり心に入ってくるでしょう。しかしその背後には、深い霊的な意味が隠されています。イエス様の十字架についてはまた次回お話しします。あなたは弟タイプでしょうか兄タイプでしょうか?もし神様に逆らって歩んできたのなら今すぐ悔い改めて父のもとに帰りましょう。または兄タイプなら正しすぎるのも問題です。あなたは人を裁いていませんか、赦していない人がいませんか?あなたもまた神様に立ち返る必要があるのです。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8章29節
2012年2月9日木曜日
第14回 「イエスの生涯―奇跡」 マタイ14章13-33節
前回からイエス・キリストの生涯について学んでいます。人としてお生まれになったイエス様が、地上で何をされたのか、その軌跡をたどっているのです。前回は神の国について学びました。イエス様は、多くのことを教えられましたが、そのメインテーマは「神の国」でした。神の国とは、人間の罪ゆえに壊れてしまった神の平和(シャローム)」のこと。具体的には、①神様との平和、②自分の良心との平和、③隣人との平和、④被造物との平和、こうした四つの関係が調和の内に保たれていること、それこそエデンの園に象徴される神の国です。しかしその平和は、人間の罪(自己中心)のゆえに壊されてしまいました。イエス様はその壊れた世界を、回復し、再創造するために来て下さったのです。そして神様は、その回復の御業を、十字架によって罪赦された人を通して行われます。人の罪によって失われた神の国は、罪の赦しによって再び始まるのです。
イエス様は、この地上でたくさんの奇跡を行われました。病人がいやされたり、水がぶどう酒になったり、悪霊が追い出されたり。現代人にとって、このような奇跡は非科学的に思えて、つまずきの原因になってしまうのかもしれません。現代人は、科学信仰(科学こそ万能で、科学で証明できないことは全て迷信だと思う傾向)に陥っているか、その正反対で非常にオカルト的な世界観(スピリチュアル、ニューエイジ、占いなど)にはまっているかです。しかしクリスチャンはそのどちらでもありません。天と地を創造された神様は(創世記1:1)、自然の法則を超えることも出来ると信じています。しかしオカルトは拒否します。それは聖書に禁じられていることです(レビ19:31)。イエス様の行われた奇跡には、呪文や怪しい儀式など、魔術的な要素はいっさいありませんでした。ただ、みことばの権威に基づいて単純に行われ、天の父に栄光が帰されました。
イエス様の代表的な奇跡は「五千人の給食」です。聖書には色々な奇跡がありますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書に共通して記されているのは、実はこの「五千人の給食」だけです。それだけ重要な奇跡だとも言えます。何が重要なのか?それは奇跡に込められているメッセージです。具体的にあげてみましょう。①「あなた方で、あの人たちに(16)」と言われていますが、これはイエス様の御業に積極的に参与することの大切さを教える言葉です。②「五つのパンと二匹の魚(17)」のようなどんな小さな賜物でも、イエス様のところに持っていく時、大きく用いられます。③余ったものを数えたら12のかごいっぱいになった(20)。12は弟子たちの数。つまり与えることは失うことではなく、自分自身も豊かに祝福されることを教えている、などなど。数年後に弟子たちは、イエス様を天に送り、自分たちが神の国の福音を述べ伝える存在になっていきます(マタイ28:18-20)。だからこそ、この奇跡からしっかり学ぶ必要があったのです。
続いて記されているのは「水上歩行」の奇跡です。ある人々は「浅瀬(あさせ)だったのだ」とか「弟子たちが幽霊だと言った通り、幻覚だったのだ」とか色々なことを言います。でもこの奇跡でも大切なのは、そこに含まれているメッセージです。①風や波は(24)、人生の試練(嵐)のことを意味しています。②しかしイエス様は、水の上を歩いて来られたように、そういった問題に支配されることのないお方です(25)。③私たちがすべきことは、このお方を信頼し、問題を見て心配するのではなく、しっかりイエス様だけを見つめて着いて行くことです。目をそらしてしまう時、ペテロのように問題に飲み込まれそうになってしまうのです(30)。④何よりも、この奇跡は、イエス様が神の子であることを現しています。この出来事の直後、弟子たちは言いました。「確かに、あなたは神の子です(33)」。このように奇跡には、私たちへの信仰の教訓が含まれています。
聖書には読み方があります。それを無視して「本当か嘘か」と批判的に読んでも、まったく恵まれません。かといって、すべてを字義どおりにとらえ実行することも、本当の熱心とは違います。大切なのは、そこに書かれている意味をしっかり読み取り、神様のみこころに従うことです。◆その意味が分かるとき、神様の臨在が私たちの心に迫ってきます。その時、聖書の奇跡はもう単なる2000年前の出来事ではありません。聖書を読む時には次のように祈って読みましょう。「イエス様、今日も聖書を通して私に語りかけて下さい。あなたのことをもっと知りたいです」。
「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、
ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
(マタイ11章2-6節)
イエス様は、この地上でたくさんの奇跡を行われました。病人がいやされたり、水がぶどう酒になったり、悪霊が追い出されたり。現代人にとって、このような奇跡は非科学的に思えて、つまずきの原因になってしまうのかもしれません。現代人は、科学信仰(科学こそ万能で、科学で証明できないことは全て迷信だと思う傾向)に陥っているか、その正反対で非常にオカルト的な世界観(スピリチュアル、ニューエイジ、占いなど)にはまっているかです。しかしクリスチャンはそのどちらでもありません。天と地を創造された神様は(創世記1:1)、自然の法則を超えることも出来ると信じています。しかしオカルトは拒否します。それは聖書に禁じられていることです(レビ19:31)。イエス様の行われた奇跡には、呪文や怪しい儀式など、魔術的な要素はいっさいありませんでした。ただ、みことばの権威に基づいて単純に行われ、天の父に栄光が帰されました。
イエス様の代表的な奇跡は「五千人の給食」です。聖書には色々な奇跡がありますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書に共通して記されているのは、実はこの「五千人の給食」だけです。それだけ重要な奇跡だとも言えます。何が重要なのか?それは奇跡に込められているメッセージです。具体的にあげてみましょう。①「あなた方で、あの人たちに(16)」と言われていますが、これはイエス様の御業に積極的に参与することの大切さを教える言葉です。②「五つのパンと二匹の魚(17)」のようなどんな小さな賜物でも、イエス様のところに持っていく時、大きく用いられます。③余ったものを数えたら12のかごいっぱいになった(20)。12は弟子たちの数。つまり与えることは失うことではなく、自分自身も豊かに祝福されることを教えている、などなど。数年後に弟子たちは、イエス様を天に送り、自分たちが神の国の福音を述べ伝える存在になっていきます(マタイ28:18-20)。だからこそ、この奇跡からしっかり学ぶ必要があったのです。
続いて記されているのは「水上歩行」の奇跡です。ある人々は「浅瀬(あさせ)だったのだ」とか「弟子たちが幽霊だと言った通り、幻覚だったのだ」とか色々なことを言います。でもこの奇跡でも大切なのは、そこに含まれているメッセージです。①風や波は(24)、人生の試練(嵐)のことを意味しています。②しかしイエス様は、水の上を歩いて来られたように、そういった問題に支配されることのないお方です(25)。③私たちがすべきことは、このお方を信頼し、問題を見て心配するのではなく、しっかりイエス様だけを見つめて着いて行くことです。目をそらしてしまう時、ペテロのように問題に飲み込まれそうになってしまうのです(30)。④何よりも、この奇跡は、イエス様が神の子であることを現しています。この出来事の直後、弟子たちは言いました。「確かに、あなたは神の子です(33)」。このように奇跡には、私たちへの信仰の教訓が含まれています。
聖書には読み方があります。それを無視して「本当か嘘か」と批判的に読んでも、まったく恵まれません。かといって、すべてを字義どおりにとらえ実行することも、本当の熱心とは違います。大切なのは、そこに書かれている意味をしっかり読み取り、神様のみこころに従うことです。◆その意味が分かるとき、神様の臨在が私たちの心に迫ってきます。その時、聖書の奇跡はもう単なる2000年前の出来事ではありません。聖書を読む時には次のように祈って読みましょう。「イエス様、今日も聖書を通して私に語りかけて下さい。あなたのことをもっと知りたいです」。
「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、
ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
(マタイ11章2-6節)
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