2012年2月18日土曜日

第15回 「イエスの生涯―たとえ話」 ルカ15章

前回はイエス様の奇跡について学びました。その際、聖書には読み方があることを教えられました。例えば、五千人の給食の奇跡にしても、水上歩行の奇跡にしても、それが「本当か嘘か」と読むのではなく、そこに書かれている意味をしっかり読み取ることが大切であると学びました。その時、聖書の奇跡は単なる2000年前の出来事ではなく、私たちの心に迫ってくる霊的な現実(信仰の教訓)となるのです。今日は、奇跡と並んでイエス様の宣教に特徴的なことです。それは、たとえ話についてです。特に有名な「放蕩息子のたとえ」からともに教えられましょう。

事の発端は弟のひと言です。「お父さん私に財産の分け前をください」。財産とは普通、父が亡くなった後に分け与えられるべきものです。しかし弟はまだ父が生きているのに、分与を望んだのです。つまりこういうことです。「お父さん、あなたに興味はありませんが、あなたのお金に興味があります。財産を分けてください。あとはわたしの好きにしますから」。普通の父だったら怒るのではないでしょうか?勘当されても仕方ありません。でも父は(内面に深い葛藤があったと思いますが)それをすんなり渡してしまうのです。そして弟は遠くへ旅立ち、そこで財産を湯水のように使ってしまうのです。どん底まで落ち、彼はハッと我に返ります。そして父のもとへ帰る決心をします。しかし道半にして、お父さんが弟を見つけ走り寄ります。感動的なシーンです。そして父は最上級のもてなしをし、息子の手に指輪をはめ宴会を開きます。雇い人なんかではない、息子としての立場が一方的なあわれみで回復されたことを意味しています。このように神様は、どんなに神様から遠く離れた人生を送ってきた人も、救い、子としてくださるのです。

ここで兄が登場します。兄は怒って家に入ろうともしませんでした。そしてこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」。兄にはどうしてもわかりませんでした。好き勝手にして、帰ってきた弟が、当然のように迎え入れられることが。「だったら真面目にお父さんに仕えてきた自分がバカみたいじゃないか」とも言わんばかりです。つまりこの兄も、べつに、お父さんを愛し仕えてきたわけではないのです。言ってみれば全ては「自分のため」でした。なのに好き放題やってきた弟が同じように愛され祝福されているのが我慢ならなかったのです。父親から見れば、弟だけでなく、この兄も失われた息子でした。心が失われていた。一緒にいたけど、心は遠く離れていたのです。彼もまた悔い改めて、祝宴に加わり、お父さんの前に膝まずき、悔い改めるべきだったのです。

そもそもこのたとえ話は兄タイプの人に語られたものでした。15章は、罪人とイエス様が食事をすることに、つぶやくパリサイ人や律法学者たちの姿で始まっています。罪人とは弟タイプのこと、そしてパリサイ人や律法学者は「正しすぎる」兄タイプのことです。この放蕩息子のたとえ話には一人の人物が隠されています。1から13節のたとえ話しには共通項があります。九十九匹を残して一匹を探す羊飼いの姿。銀貨十枚のうち亡くした一枚を必死に探す女の姿。でも放蕩息子のお父さんは、弟の帰郷を喜び走り寄りましたが、基本的に待っていました。この話には「必死に探して連れ戻す人物(本来、兄が取るべきだった行動)」が意図的に隠されているのです。じつは、それこそイエス様なのです。イエス様は、放蕩息子のように、父の愛が分からず、父の愛からさまよい出て、自分勝手に生きていたわたしたちを、捜して救うためにこの世にお生まれになりました。そして十字架にかかり、その血で私たちの罪を洗い、父のもとに帰る準備をすべて整えて下さったのです。イエス様こそ私たちにとって良い兄なのです。イエス様はあえてそれを隠すことによって、かえって際(きわ)立たせ、人々が後に思い出して気づくようにされたのです。

イエス様のたとえ話は、物語としてはすんなり心に入ってくるでしょう。しかしその背後には、深い霊的な意味が隠されています。イエス様の十字架についてはまた次回お話しします。あなたは弟タイプでしょうか兄タイプでしょうか?もし神様に逆らって歩んできたのなら今すぐ悔い改めて父のもとに帰りましょう。または兄タイプなら正しすぎるのも問題です。あなたは人を裁いていませんか、赦していない人がいませんか?あなたもまた神様に立ち返る必要があるのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8章29節