2012年4月5日木曜日

受難週祈祷会 「どうしてお見捨てになったのですか」

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」マタイ27章46節

イエス様が十字架上で語られた言葉を「十字架上の7言(げん)」と言います。2008,2009,2011,2012年の受難週ごとに学んできて、今年で4つ目の言葉になります。それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、日本語に訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味になります。どうしてイエス様は、このように叫ばれたのでしょうか?

ある意味この言葉ほど、誤解されている言葉はないと思います。明治十年代、キリスト教の伝道が盛んになされていった時代、岐阜にも近い富山にて、仏教徒によるキリシタン迫害がありました。その中で、キリスト教がいかに信じるに値しない宗教であるかを門徒たちに教える「かぞえ歌」があったと記録されています。その一節にはこうあります。「最後に臨みてキリストは、天主の(てんしゅ=神様を)うらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主のうらみてな、泣き出す」とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様のお言葉を指して言っているのです。最期は絶望の内に、神を恨みつつ、惨めに死んでいった情けない奴を、救い主だなどと信じている、クリスチャンとはなんと哀れな連中か、というわけです。

今日読んだ聖書箇所にも、その叫びを聞いた人々はこう言っています。「イエスはエリヤを呼んでいる。エリヤが助けに来るかどうかみることにしよう(49)」。そうしてイエス様のことを、助けを求める弱い奴だと言っているのです。現代でも、ある人々は「イエスは革命に失敗し、弟子達にも見捨てられ、無念のうちに『わが神、わが神』と叫んだのだ」と説明する人もありますし、ある人は、「イエス様は、十字架の上で苦しくて、苦しくて、ついつい本音が出てしまった」のだとも言います。今も昔も変わっていません。昔から人々は、このイエス様の十字架に躓くのです。聖書にはこうあります「(十字架につけられたキリストは)ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう(Ⅰコリント1:23)」と。しかしこうともあります。「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です!(18)」と。

イエス様が「本当は神の子ではなかった」からではなく、神の子であったからこそ、このように叫ばれました。父なる神様と子なるキリストは「ひとつ」でした(ヨハネ10:30)。愛によって完全に結ばれた三位一体(お一人)の神様です。イエス様がバプテスマを受けられた時、天からこのような声が聞こえました「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイ3:17)」。しかしイエス様が私たちの罪を負われたことにより、その親密な関係に亀裂が入り、断絶が生まれたのです。お一人の方が引きちぎられたらどうなるでしょうか?当然、ひどい苦痛が容赦なく襲いかかります。それがこの「わが神わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びの正体なのです。本来、私たちが見捨てられ、のろわれ「どうして私をお見捨てになったのですか…」と朽ち果てるべき存在でした。でもイエス様が、身代わりになってくださることにより、私たちは赦され、いやされ、父なる神様の愛の内に生かされることになったのです。(Ⅰペテロ2:24)

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」これは詩篇22篇1節の言葉の引用でもあります。衝撃的な言葉で始まるこの詩篇は、後半に進むにつれ主への信頼で溢れていきます。つまりどういうことなのでしょう?イエス様は絶望から、不信仰に陥りこう叫んだのではなく、信頼に溢れていたからこそ、主を尋ね「求めて」このように叫ばれたということです(26)。イエス様はその先に愛する父が御手を広げて待っておられることを信じていました。私たちも信仰生活の中で同じような苦しみを経験することがあるかもしれません。でもそんな時こそ、主を信頼し、尋ね「求め」続けたいものです。その先に必ず復活のいのちが待っていることを信じて!

まことに主は悩む者の悩みをさげすむことなく、
いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、
聞いてくださった。(詩篇22篇24節)