2012年4月26日木曜日

第21回 「イエスの生涯―復活③」 使徒9章 Ⅰコリント15章

前回は、キリストの復活の「私たちにとっての意味」を学びました。私たちは信仰によって、十字架につけられたキリストとともに死に、ともに生かされる、再創造を経験します。聖書にはこうあります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です(そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」。生き方も新しくされます。かつては、自分のために生き、自己実現を人生の目標としていました。しかし新しく生まれ変わった私たちは、そのような人間的な標準(自己中心)を捨て、神と人とを愛するために生きる者とされるのです。目に見える変化はゆっくりかもしれません。しかし目に見えない霊的な世界での変化は、鮮やかで、一瞬です。私たちは「全く新しくされた」のです。これを「新生(しんせい)」といいますが、代々の聖徒たちも、この恵みを体験してきました。

その代表格はパウロでしょう。彼はかつてサウロと呼ばれ、クリスチャンを迫害する急先鋒に立っていました。彼は律法(旧約聖書)に厳格な、パリサイ派のエリートでした。そんな彼にとって、十字架につけられたイエスが、神の子であり、救い主だというクリスチャンの主張は、神への冒涜以外の何ものでもありませんでした。そこで彼はクリスチャンを見つけ次第、牢にぶち込み、殺害のほう助もしていました(使徒8:1)。そんな彼に、イエス様は現れ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか(9:4)」と声をかけられました。本来ならこの時、命を失ってもおかしくありませんでした。でもイエス様は、彼を裁かないばかりか、生かして下さり、「福音を異邦人に届ける」新しい使命まで与えて下さったのです(使徒9章)。ですから彼には「今の私があるのは、ただ神の一方的な恵みによる(Ⅰコリント15:10)」という深い自覚がありました。その後の彼は、文字通り新しく創り変えられました。彼自身がこう書いています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラ2:20)」。「私の切なる祈りと願いは…私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です(ピリピ1:20-21)」。 

このパウロの存在は、復活を否定したい人にとって、最大の「不都合な真実」でしょう。もし彼の言うことが全部でたらめなら、嘘のために、ここまでする人がいるでしょうか?「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23‐27)」。でも彼はこれらを喜びとしたのです。なぜでしょうか?彼は本当に復活のイエスに出会い、赦され、生かされ、変えられたからです。その彼の命がけのメッセージです。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです」。

「ベン・ハー」という映画を知っていますか?原作を書いたルー・ウォーレスはもともと無神論者で、キリスト教撲滅運動のリーダーでした。彼は聖書を調べ、キリストの復活さえ否定できれば、キリスト教を撲滅できると考えました。そして世界中から資料を取り寄せ、熱心に研究しました。しかし資料を集めれば集めるほど、彼はキリストの復活を信じざるをえず、とうとうある夜、彼は書いていたキリスト教撲滅論を破り捨て、その資料を用いてキリストを救い主として描いた小説を書き始めたのです。それが「ベン・ハー」でした。だからあの物語の真の主人公はイエス様で、彼自身が経験したイエス様の愛と赦しがテーマとなっているのです。パウロと似ていますね。

「恵み」に目が開かれるとき、私たちの人生は変えられます。義務や強制、恐怖によっては変わりません。罪悪感が生まれるだけです。しかし十字架で死なれ、よみがえられ、今も生きておられる主イエスに出会い、その愛と赦しを経験する時に私たちの人生は全く新しくされるのです。 


ところが、神の恵みによって、
私は今の私になりました。(Ⅰコリ15:10)

もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラ2:20)


映画「Ben Hur」のワンシーン

2012年4月19日木曜日

第20回 「イエスの生涯―復活②」 Ⅱコリント5章 ローマ6章

前回は、史実としての「復活」について学びました。イエス様は、ただ単に、信じる者の心の中で、よみがえるだけではなく、実際に、この地上で、肉体をまとってよみがえられました。それを証明するかのように、イエス様は弟子たちの前で魚を一切れ食べられました(ルカ24:43)。弟子たちは決して狂信的な人々ではありません。復活について聞くと「たたわごと」と思ってしまうほど普通の人々でした。そんな彼らが変えられて、イエス様を大胆に宣べ伝えるようになったこと自体が、キリストがよみがえられたことの最も大きな証拠でもあります。今日は一歩進んで、このキリストの復活が、現代の私たちにどのような意味を持つのかを見て行きたいと思います。

イエス様の復活によって、失われた「平和」が回復されました。このことを理解するためには、今までの学びを思い出す必要があります。私たちは「神のかたち」に造られましたが、それは、私たちが「関係」の中に生きる存在として造られたという意味です。その「関係」は、具体的に四つ、①神様との関係②自分自身との関係③隣人との関係④被造物との関係でした。創造のはじめ、その「関係」は、愛によって完全な調和を保っていました。その状態を「平和(シャローム)」といいます。しかし罪が人の心に入って来た時、「平和」は壊れ、人は死ぬ存在となってしましました。「死」とは神様との断絶です。そこで神様は壊れた関係を修復し、平和を回復するために律法を与えられました。でも律法は私たちを救うどころか、かえって断絶を深めてしまいました。人は律法を誤解し、自分の祝福だけを追求する「律法主義」に陥るか、もしくは「さばき主である神の歪められたイメージ」に躓き、ますます神を避けるようになってしまいました。そこで神のひとり子であるイエス様が「平和の君」としてこの世にお生まれになってくださいました。

イエス様はどのように平和を実現して下さったのでしょうか。分かりやすくいうとイエス様は、そもそもの原因である人類の罪を背負い、十字架にかかってくださり、ご自分のいのちと一緒にその罪を葬り去り、3日目によみがえられることによって、まったく新しい世界(平和・神の国)を再創造して下さいました(エペソ2:14-16)。しかも重要なことは、それが単に2000年前の出来事ではなく、私たちにとって現実であるということです。イエス様は時間に支配される方ではなく、時間を創造された神様です(ヨハネ1:1-3)。そして、そのイエス様を信じる時、私たちは信仰によって十字架のキリストとひとつにされ、ともに死に、ともに生かされ、まったく新しいいのちに生かされるのです。聖書にはこうあります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」。見た目には、何も変わっていないように見えても、目に見えない世界では驚くべき変化が起こっています。天の御使いの歓声がわき起こっています(ルカ15:10)。罪の奴隷であった私たちが、神の子どもとされ、国籍は天に移されました。私たちは今や、天国から逆派遣された、神の国の大使(使節)なのです。その私たちに与えられた最大の使命は「平和をつくること」です(マタイ5:9)!

私たちには和解の務めがゆだねられています。十字架にはタテの棒とヨコの棒があるように、神様の和解を経験した私たちは、その和解をヨコの方向(隣人と被造物全体)に広げていく責任をゆだねられています。つまり目に見えない世界で始まった変化を、目に見える「この世」にも現していく使命です。ちょうど神のひとり子イエス様が、受肉され、この世にお生まれになり、神の国を述べ伝えられたように。イエス様に出会う以前の私たちは、ひたすら自分のために生き、神様でさえも自分のために利用するような者でした。それが「人間的な標準(自己中心)」です。でもこれからは、そのような標準で生きようとは思いません(Ⅱコリ5:16)。新しくされた私たちは、第一に『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二に『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』この二つを標準として生きます(マコ12:30-31)。私たちは、まさに、このために、救われ、生かされているのです(ローマ6:4)。

どうでしょうか?あなたは古い自分に死に、新しいいのちに生かされていますか?それとも古い標準がなかなか抜けず、もがき苦しんでいるでしょうか?もし後者なら、変われない現実ばかりを見て落胆するのではなく、既に新しくされた「霊的な現実」に目をとめましょう。健全な罪意識は大切ですが、あなたを変えるのは、復活の主に対する「信仰」と「感謝」の心なのです。


ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、
今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、
また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
Ⅱコリント5章16-18節

このように、あなたがたも、
自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって
生きた者だと、思いなさい。
ローマ6章11節



2012年4月13日金曜日

第19回 「イエスの生涯―復活①」 ルカ24章 ヨハネ20章

前回まで私たちはイエス様の十字架について学んできました。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられ、父なる神様から、のろわれ、見捨てられた者となってくださいました。十字架上の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とは、本来一つであるはずの父と子(三位一体の神)が、罪によって無残に引き裂かれたことによる叫びでした。本来なら、私たち自身が、自分の罪を負い、見捨てられるべき存在であったのです。その後、イエス様は「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と息を引き取られ、墓に葬られました(ルカ23章)。

でも、それでお終いではありませんでした。週のはじめの日の早朝、女たちが墓に向かってみると、なんと墓は空っぽでした。そして天の使いがこう言うのです。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです(ルカ24:5-6)」。そこで女たちはイエス様が、かつて「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない(7)」と話されていたことを思い出したのでした。すぐに女たちは、イエス様を裏切ったユダを除く11人の弟子たちが待っているところに帰って行き、一部始終を報告しました。しかし彼らにとっては、この話しは「たわごと」と思われ、信じる気にもなれませんでした(11)。この反応は、別な箇所に記されているトマスの態度にも通じます。トマスは他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、こう答えるのです「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」。このことからも、イエス様の弟子たちは、特別に熱心な人々でも、ましてや狂信的な人々でもなく、極めて普通で、常識的な人々であったことが分かります。

ある人々は、このイエスの復活は、弟子たちの自作自演だと言います。しかしマタイの福音書を読めば、十分すぎる対策が取られていたことが分かります。祭司長や律法学者たちはピラトにこう願いました。「(番兵に)三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出して『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが前の場合より、もっとひどいことになります(27:64)」。また墓の入り口には大きな石で封印をし(66)、女たちの話を聞きつけると、先回りして「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ」と噂を広める念の入れようでした。そもそも弟子たちは、十字架を前に逃げ出し、復活の報告を受けても「たわごと」のように思い、その後も「ユダヤ人を恐れ部屋に閉じこもって(ヨハネ10:19)」いたような人物たちでした。いのちの危険を冒してまで、遺体を盗み出すなんてできそうにありません。逆に言えば、そんな彼らが、それこそ命がけで「復活の主イエス」の宣べ伝える、証し人へと変えられていったところに「本当に復活は起こった」という、信ぴょう性があるのではないでしょうか?

弟子たちはどのように信じる者へと変えられていったのでしょう。結論から言えば、復活の主イエスに出会ったからです。しかし聖書を読めば、そこに至るまでのプロセスも知ることができます。ペテロは半信半疑であったにもかかわらず、すぐに立ち上がり墓に向かって駆け出しました。彼はただ疑っていたのではなく、「知りたい」と願い、実際の行動に移したのです。そうして彼は、弟子の中では最初の目撃者となりました(ルカ24:34)。またトマスは最後まで「私の指を釘のところに差し入れなければ決して信じません(ヨハネ20:25)」と言っていましたが、それでも弟子たちの交わりの中に留まり続けていました(26)。「信じられない」といって、すぐに見切りをつけてしまうのではなく、それでも聖徒たちの交わりに留まり、求め続ける、その時、主ご自身が、その人に近づいてくださることが分かります。人間ですから「疑い」をいきなり克服するのは難しいでしょう。ただそれでも求める強い気持ちは大切です。その求める心が、信仰の始まりなのです。「その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』(マルコ9:24)。

そして一番大切なのは見ないで信じることです。イエス様もこのようにおっしゃられました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」。なぜなら「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリ4:18)」。

あなたがたはイエス・キリストを、
見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くすことのできない、
栄えに満ちた喜びにおどっています。
Ⅰペテロ1章8節


2012年4月5日木曜日

受難週祈祷会 「どうしてお見捨てになったのですか」

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」マタイ27章46節

イエス様が十字架上で語られた言葉を「十字架上の7言(げん)」と言います。2008,2009,2011,2012年の受難週ごとに学んできて、今年で4つ目の言葉になります。それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、日本語に訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味になります。どうしてイエス様は、このように叫ばれたのでしょうか?

ある意味この言葉ほど、誤解されている言葉はないと思います。明治十年代、キリスト教の伝道が盛んになされていった時代、岐阜にも近い富山にて、仏教徒によるキリシタン迫害がありました。その中で、キリスト教がいかに信じるに値しない宗教であるかを門徒たちに教える「かぞえ歌」があったと記録されています。その一節にはこうあります。「最後に臨みてキリストは、天主の(てんしゅ=神様を)うらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主のうらみてな、泣き出す」とは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様のお言葉を指して言っているのです。最期は絶望の内に、神を恨みつつ、惨めに死んでいった情けない奴を、救い主だなどと信じている、クリスチャンとはなんと哀れな連中か、というわけです。

今日読んだ聖書箇所にも、その叫びを聞いた人々はこう言っています。「イエスはエリヤを呼んでいる。エリヤが助けに来るかどうかみることにしよう(49)」。そうしてイエス様のことを、助けを求める弱い奴だと言っているのです。現代でも、ある人々は「イエスは革命に失敗し、弟子達にも見捨てられ、無念のうちに『わが神、わが神』と叫んだのだ」と説明する人もありますし、ある人は、「イエス様は、十字架の上で苦しくて、苦しくて、ついつい本音が出てしまった」のだとも言います。今も昔も変わっていません。昔から人々は、このイエス様の十字架に躓くのです。聖書にはこうあります「(十字架につけられたキリストは)ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう(Ⅰコリント1:23)」と。しかしこうともあります。「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です!(18)」と。

イエス様が「本当は神の子ではなかった」からではなく、神の子であったからこそ、このように叫ばれました。父なる神様と子なるキリストは「ひとつ」でした(ヨハネ10:30)。愛によって完全に結ばれた三位一体(お一人)の神様です。イエス様がバプテスマを受けられた時、天からこのような声が聞こえました「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイ3:17)」。しかしイエス様が私たちの罪を負われたことにより、その親密な関係に亀裂が入り、断絶が生まれたのです。お一人の方が引きちぎられたらどうなるでしょうか?当然、ひどい苦痛が容赦なく襲いかかります。それがこの「わが神わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びの正体なのです。本来、私たちが見捨てられ、のろわれ「どうして私をお見捨てになったのですか…」と朽ち果てるべき存在でした。でもイエス様が、身代わりになってくださることにより、私たちは赦され、いやされ、父なる神様の愛の内に生かされることになったのです。(Ⅰペテロ2:24)

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」これは詩篇22篇1節の言葉の引用でもあります。衝撃的な言葉で始まるこの詩篇は、後半に進むにつれ主への信頼で溢れていきます。つまりどういうことなのでしょう?イエス様は絶望から、不信仰に陥りこう叫んだのではなく、信頼に溢れていたからこそ、主を尋ね「求めて」このように叫ばれたということです(26)。イエス様はその先に愛する父が御手を広げて待っておられることを信じていました。私たちも信仰生活の中で同じような苦しみを経験することがあるかもしれません。でもそんな時こそ、主を信頼し、尋ね「求め」続けたいものです。その先に必ず復活のいのちが待っていることを信じて!

まことに主は悩む者の悩みをさげすむことなく、
いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、
聞いてくださった。(詩篇22篇24節)