2012年4月19日木曜日

第20回 「イエスの生涯―復活②」 Ⅱコリント5章 ローマ6章

前回は、史実としての「復活」について学びました。イエス様は、ただ単に、信じる者の心の中で、よみがえるだけではなく、実際に、この地上で、肉体をまとってよみがえられました。それを証明するかのように、イエス様は弟子たちの前で魚を一切れ食べられました(ルカ24:43)。弟子たちは決して狂信的な人々ではありません。復活について聞くと「たたわごと」と思ってしまうほど普通の人々でした。そんな彼らが変えられて、イエス様を大胆に宣べ伝えるようになったこと自体が、キリストがよみがえられたことの最も大きな証拠でもあります。今日は一歩進んで、このキリストの復活が、現代の私たちにどのような意味を持つのかを見て行きたいと思います。

イエス様の復活によって、失われた「平和」が回復されました。このことを理解するためには、今までの学びを思い出す必要があります。私たちは「神のかたち」に造られましたが、それは、私たちが「関係」の中に生きる存在として造られたという意味です。その「関係」は、具体的に四つ、①神様との関係②自分自身との関係③隣人との関係④被造物との関係でした。創造のはじめ、その「関係」は、愛によって完全な調和を保っていました。その状態を「平和(シャローム)」といいます。しかし罪が人の心に入って来た時、「平和」は壊れ、人は死ぬ存在となってしましました。「死」とは神様との断絶です。そこで神様は壊れた関係を修復し、平和を回復するために律法を与えられました。でも律法は私たちを救うどころか、かえって断絶を深めてしまいました。人は律法を誤解し、自分の祝福だけを追求する「律法主義」に陥るか、もしくは「さばき主である神の歪められたイメージ」に躓き、ますます神を避けるようになってしまいました。そこで神のひとり子であるイエス様が「平和の君」としてこの世にお生まれになってくださいました。

イエス様はどのように平和を実現して下さったのでしょうか。分かりやすくいうとイエス様は、そもそもの原因である人類の罪を背負い、十字架にかかってくださり、ご自分のいのちと一緒にその罪を葬り去り、3日目によみがえられることによって、まったく新しい世界(平和・神の国)を再創造して下さいました(エペソ2:14-16)。しかも重要なことは、それが単に2000年前の出来事ではなく、私たちにとって現実であるということです。イエス様は時間に支配される方ではなく、時間を創造された神様です(ヨハネ1:1-3)。そして、そのイエス様を信じる時、私たちは信仰によって十字架のキリストとひとつにされ、ともに死に、ともに生かされ、まったく新しいいのちに生かされるのです。聖書にはこうあります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全ては新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」。見た目には、何も変わっていないように見えても、目に見えない世界では驚くべき変化が起こっています。天の御使いの歓声がわき起こっています(ルカ15:10)。罪の奴隷であった私たちが、神の子どもとされ、国籍は天に移されました。私たちは今や、天国から逆派遣された、神の国の大使(使節)なのです。その私たちに与えられた最大の使命は「平和をつくること」です(マタイ5:9)!

私たちには和解の務めがゆだねられています。十字架にはタテの棒とヨコの棒があるように、神様の和解を経験した私たちは、その和解をヨコの方向(隣人と被造物全体)に広げていく責任をゆだねられています。つまり目に見えない世界で始まった変化を、目に見える「この世」にも現していく使命です。ちょうど神のひとり子イエス様が、受肉され、この世にお生まれになり、神の国を述べ伝えられたように。イエス様に出会う以前の私たちは、ひたすら自分のために生き、神様でさえも自分のために利用するような者でした。それが「人間的な標準(自己中心)」です。でもこれからは、そのような標準で生きようとは思いません(Ⅱコリ5:16)。新しくされた私たちは、第一に『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二に『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』この二つを標準として生きます(マコ12:30-31)。私たちは、まさに、このために、救われ、生かされているのです(ローマ6:4)。

どうでしょうか?あなたは古い自分に死に、新しいいのちに生かされていますか?それとも古い標準がなかなか抜けず、もがき苦しんでいるでしょうか?もし後者なら、変われない現実ばかりを見て落胆するのではなく、既に新しくされた「霊的な現実」に目をとめましょう。健全な罪意識は大切ですが、あなたを変えるのは、復活の主に対する「信仰」と「感謝」の心なのです。


ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、
今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、
また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
Ⅱコリント5章16-18節

このように、あなたがたも、
自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって
生きた者だと、思いなさい。
ローマ6章11節