前回まで私たちはイエス様の十字架について学んできました。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられ、父なる神様から、のろわれ、見捨てられた者となってくださいました。十字架上の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とは、本来一つであるはずの父と子(三位一体の神)が、罪によって無残に引き裂かれたことによる叫びでした。本来なら、私たち自身が、自分の罪を負い、見捨てられるべき存在であったのです。その後、イエス様は「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と息を引き取られ、墓に葬られました(ルカ23章)。
でも、それでお終いではありませんでした。週のはじめの日の早朝、女たちが墓に向かってみると、なんと墓は空っぽでした。そして天の使いがこう言うのです。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです(ルカ24:5-6)」。そこで女たちはイエス様が、かつて「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない(7)」と話されていたことを思い出したのでした。すぐに女たちは、イエス様を裏切ったユダを除く11人の弟子たちが待っているところに帰って行き、一部始終を報告しました。しかし彼らにとっては、この話しは「たわごと」と思われ、信じる気にもなれませんでした(11)。この反応は、別な箇所に記されているトマスの態度にも通じます。トマスは他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、こう答えるのです「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」。このことからも、イエス様の弟子たちは、特別に熱心な人々でも、ましてや狂信的な人々でもなく、極めて普通で、常識的な人々であったことが分かります。
ある人々は、このイエスの復活は、弟子たちの自作自演だと言います。しかしマタイの福音書を読めば、十分すぎる対策が取られていたことが分かります。祭司長や律法学者たちはピラトにこう願いました。「(番兵に)三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出して『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが前の場合より、もっとひどいことになります(27:64)」。また墓の入り口には大きな石で封印をし(66)、女たちの話を聞きつけると、先回りして「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ」と噂を広める念の入れようでした。そもそも弟子たちは、十字架を前に逃げ出し、復活の報告を受けても「たわごと」のように思い、その後も「ユダヤ人を恐れ部屋に閉じこもって(ヨハネ10:19)」いたような人物たちでした。いのちの危険を冒してまで、遺体を盗み出すなんてできそうにありません。逆に言えば、そんな彼らが、それこそ命がけで「復活の主イエス」の宣べ伝える、証し人へと変えられていったところに「本当に復活は起こった」という、信ぴょう性があるのではないでしょうか?
弟子たちはどのように信じる者へと変えられていったのでしょう。結論から言えば、復活の主イエスに出会ったからです。しかし聖書を読めば、そこに至るまでのプロセスも知ることができます。ペテロは半信半疑であったにもかかわらず、すぐに立ち上がり墓に向かって駆け出しました。彼はただ疑っていたのではなく、「知りたい」と願い、実際の行動に移したのです。そうして彼は、弟子の中では最初の目撃者となりました(ルカ24:34)。またトマスは最後まで「私の指を釘のところに差し入れなければ決して信じません(ヨハネ20:25)」と言っていましたが、それでも弟子たちの交わりの中に留まり続けていました(26)。「信じられない」といって、すぐに見切りをつけてしまうのではなく、それでも聖徒たちの交わりに留まり、求め続ける、その時、主ご自身が、その人に近づいてくださることが分かります。人間ですから「疑い」をいきなり克服するのは難しいでしょう。ただそれでも求める強い気持ちは大切です。その求める心が、信仰の始まりなのです。「その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』(マルコ9:24)。
そして一番大切なのは見ないで信じることです。イエス様もこのようにおっしゃられました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」。なぜなら「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリ4:18)」。
あなたがたはイエス・キリストを、
見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くすことのできない、
栄えに満ちた喜びにおどっています。
Ⅰペテロ1章8節