2012年5月17日木曜日

第23回 「信仰と、良い行いと、御霊の働き」 エペソ2章、ガラテヤ5章

前回私たちは「聖霊の働き」について学びました。弟子たちは、イエス様が天に昇って行かれる直前まで「主よ、今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか(使徒1:6)」と的外れな信仰をもっていました。そんな彼らが本当の意味で変えられ、大胆にイエス様の復活を証ししはじめたのは聖霊を注がれてからでした(使徒2章)。この聖霊について、イエス様はかつてこう説明されました。「助け主が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます(ヨハネ16:8)」。事実、聖霊に満たされたペテロのメッセージを聞いた群衆はこう言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」。それに対してペテロは言いました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(2:38)」。別な箇所ではこんな言葉もあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(16:31)」。でも本当にそれだけで(悔い改めたり、信じたりするだけで)よいのでしょうか?それで救われるのでしょうか?

そうなのです!今回お伝えしたいのは、救いが「神様からの一方的なプレゼント」であることです。聖書にはこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ2:8-9)」。ここに「信仰によって救われたのです」とありますが、その信仰さえ、厳密に言えば聖霊の導きによって与えられたので、まさしくすべてが神様からの一方的なプレゼントなのです。もちろん自分でも聖書を読み、神様を知りたいと強く願い、祈り、主体的に求めることは大切です。でもそういう努力や行いによって救われるわけではありません。もしそうであれば、私たちは、自分自身を神のようにする(神様を不要とする)、アダムとエバと同じ罪を犯してしまうのです。むしろ私たちは、そのような生き方を止め、神様とともに歩む者となることを望まれているのです。イエス様が十字架上で全てを整えて下さいました。あと私たちに出来ることは、それを素直に受け取ること(イエス様が私たちの罪のために十字架かかり、死に、三日目によみがえられたことを、素直に信じること)だけなのです。 

こんなに単純なことが、意外と難しいのです。資本主義の中にどっぷりとつかっている私たちにとって、無償で何かいただける(価なしに罪を赦される)ということが、ある意味、一番理解しにくいのです。ある人は、こう心配するかもしれません。「そんな都合のよい話しがあったら、人はもっと悪いことを平気でしてしまうのではないでしょうか?」。しかし先程の御言葉には続きがあります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2:10)」。つまり、その人が本当に聖霊によって自分の罪を示され、自己中心な生き方を捨て、神により頼む者とされたのなら、「良い行い」もまた、神様によって「あらかじめ備えられている」と。イエス様は、もっと分かりやすくこう言われました。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです(マタイ7:20)」。またヤコブの手紙には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」ともあります。こういうと、かえってプレッシャーでしょうか? 

でも自分が頑張って、出来れば傲慢になり、できなければ卑屈になる、そんなことではないのです。そういう生き方は先ほども言ったように「罪」です。そういう生き方を離れるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。なのに、その生き方に戻ってはいけないのです。私たちは「御霊によって歩む人生」に入れられました(ガラ5:25)。聖書にはこうあります。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉(の努力)によって完成されるというのですか(3:3)」。御霊によって歩むとは、御霊の悲しまれることや喜ばれることを意識しながら、御霊とともに生きることです。御言葉を正しく読むことは大切。でももっと生き生きと、呼吸するかのように御霊と対話しながら、一瞬一瞬をこの方とともに生きることなのです。 

あなたはまだ自分で自分を救おうとしていませんか?それで息苦しくなっていませんか?そこから出て、神様とともに歩む人生を始めてみませんか?御霊のいのちがあなたを変えるのです!



あなたがたは、恵みのゆえに、
信仰によって救われたのです。
れは、自分自身から出たことではなく、
神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2章8-10節



もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。

ガラテヤ5章25節