そうなのです!今回お伝えしたいのは、救いが「神様からの一方的なプレゼント」であることです。聖書にはこうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ2:8-9)」。ここに「信仰によって救われたのです」とありますが、その信仰さえ、厳密に言えば聖霊の導きによって与えられたので、まさしくすべてが神様からの一方的なプレゼントなのです。もちろん自分でも聖書を読み、神様を知りたいと強く願い、祈り、主体的に求めることは大切です。でもそういう努力や行いによって救われるわけではありません。もしそうであれば、私たちは、自分自身を神のようにする(神様を不要とする)、アダムとエバと同じ罪を犯してしまうのです。むしろ私たちは、そのような生き方を止め、神様とともに歩む者となることを望まれているのです。イエス様が十字架上で全てを整えて下さいました。あと私たちに出来ることは、それを素直に受け取ること(イエス様が私たちの罪のために十字架かかり、死に、三日目によみがえられたことを、素直に信じること)だけなのです。
こんなに単純なことが、意外と難しいのです。資本主義の中にどっぷりとつかっている私たちにとって、無償で何かいただける(価なしに罪を赦される)ということが、ある意味、一番理解しにくいのです。ある人は、こう心配するかもしれません。「そんな都合のよい話しがあったら、人はもっと悪いことを平気でしてしまうのではないでしょうか?」。しかし先程の御言葉には続きがあります。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2:10)」。つまり、その人が本当に聖霊によって自分の罪を示され、自己中心な生き方を捨て、神により頼む者とされたのなら、「良い行い」もまた、神様によって「あらかじめ備えられている」と。イエス様は、もっと分かりやすくこう言われました。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです(マタイ7:20)」。またヤコブの手紙には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」ともあります。こういうと、かえってプレッシャーでしょうか?
でも自分が頑張って、出来れば傲慢になり、できなければ卑屈になる、そんなことではないのです。そういう生き方は先ほども言ったように「罪」です。そういう生き方を離れるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。なのに、その生き方に戻ってはいけないのです。私たちは「御霊によって歩む人生」に入れられました(ガラ5:25)。聖書にはこうあります。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉(の努力)によって完成されるというのですか(3:3)」。御霊によって歩むとは、御霊の悲しまれることや喜ばれることを意識しながら、御霊とともに生きることです。御言葉を正しく読むことは大切。でももっと生き生きと、呼吸するかのように御霊と対話しながら、一瞬一瞬をこの方とともに生きることなのです。
あなたはまだ自分で自分を救おうとしていませんか?それで息苦しくなっていませんか?そこから出て、神様とともに歩む人生を始めてみませんか?御霊のいのちがあなたを変えるのです!
あなたがたは、恵みのゆえに、
あなたがたは、恵みのゆえに、
信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、
神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2章8-10節
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
ガラテヤ5章25節