まず知らなければいけないのは、教会はキリストのからだだということです。聖書にはこうあります。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1:23)」。すごい教えではないでしょうか?よくこう言う人がいます。「神様は大好きだけど、教会は好きじゃない」。確かに教会は、完璧な人の集まりではありません。色々な欠けもあります。でもイエス様は、その教会を「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものと(5:27)」するためにご自分を捧げて下さり、驚くべきことに、その教会を指して「これこそ私のからだだ!」と仰っておられるのです。もしあなたに大切な人がいて、こう言ったらどうでしょう。「あなたのことは好きだけど、あなたのからだ(存在)はいらない。必要な時に励ましのメールだけください」。それが本当の愛でしょうか?いいえ自己中心です。本当の愛とは、からだ(存在)も含めてすべてを受け入れ、愛することです。つまり、私たちがもしも本当に、イエス様を愛するなら、当然そのからだである教会も愛するのです。
属することの重要性を、イエス様はこうおっしゃられました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません(ヨハネ15:4)」。これは、イエス様と、その戒め(教え)に留まることを意味しています。その戒めにはこうあります。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです(17)」。となると、これは教会に連なることも意味しています。イエス様の愛は、遠くから眺めていて分かるものではありません。実際に主を信じる人々の中に入って行き、兄弟姉妹と呼ばれる互いに属する関係を築き、真剣に向き合い、イエス様の愛を実践する中で、聖書の意味が心に迫ってくるのです。教会は楽しいところです。そこには世代を超えた豊かな交わりがあります。しかし時には、争いがあったり、残念な気持ちになったりすることもあるのかもしれません。でもそのただ中で、私たちは、本当の意味で人を愛し、赦す、十字架を学ぶのです。
また教会は、世界再創造の最重要拠点でもあります。神様は、地上の教会を通して偉大な計画をお持ちです。それは「天にあるもの地にあるものが、この方(キリスト)にあって一つに集められ(新しく再創造され)るのです(エペソ1:10)」。教会はその計画の拠点です。目に見える教会は小さくても、じつは偉大な権威が与えられています(「ハデスの門も打ち勝てません」マタイ16:18)。罪よって破壊されたエデンの園とその平和。神との絆も、隣人との絆も壊れていまいました。しかしイエス様はその暗闇に、十字架という思いもよらない方法によって希望の光を投げかけられました。そして、イエス様の復活を信じ、そのいのちに預かった人々を通して、神を愛し、隣人を愛する「まったく新しい愛の共同体(神の国・平和)」が形成され、押し広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。
また教会は、世界再創造の最重要拠点でもあります。神様は、地上の教会を通して偉大な計画をお持ちです。それは「天にあるもの地にあるものが、この方(キリスト)にあって一つに集められ(新しく再創造され)るのです(エペソ1:10)」。教会はその計画の拠点です。目に見える教会は小さくても、じつは偉大な権威が与えられています(「ハデスの門も打ち勝てません」マタイ16:18)。罪よって破壊されたエデンの園とその平和。神との絆も、隣人との絆も壊れていまいました。しかしイエス様はその暗闇に、十字架という思いもよらない方法によって希望の光を投げかけられました。そして、イエス様の復活を信じ、そのいのちに預かった人々を通して、神を愛し、隣人を愛する「まったく新しい愛の共同体(神の国・平和)」が形成され、押し広げられているのです。有名な讃美歌にこのような歌詞があります。「昔 主イェスの、蒔きたまいし、いとも小さき、いのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、木とはなりぬ(讃美歌21、412番)」。
あなたが教会の一員とされたことには「神様の偉大な計画」があります。それはあなたと、あなたの教会を通して、全世界に神の国が広げられること。あなたはそのために選ばれたのです!
あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネ15章16節