2011年9月28日水曜日

第6回 「聖書の神様~創造主~」 創世記1章、イザヤ46章

前回は「聖く、あわれみ深い神~」と題して学びました。これは、その前に学んだ、神様が「霊」であり、「ご人格」をもった方であるということとも深く結び付いています。つまり、この神様は「単なるエネルギー」とか「ご神体(神が宿るとされる物体)」とかではなく、今も生きて、私たち人間と、血の通った関係を築こうとされるお方なのです。また、それこそが、私たち人間か創られた(創造された)、目的でもあるのです。今回は、この創造について詳しく学びます。

「初めに、神が天と地を創造した」、これこそ、聖書の書き出しです。「初めに」を、ヘブル語では「ベレーシート」と言いますが、これは単なる時間のはじまりを意味するだけではなく「物事の起源」を意味する言葉です。つまり「神様は、この世界(宇宙)が誕生する前から存在しておられる、創り主であり、すべての根源なるお方である」という意味です(参照ヨハネ1:1)。そして、その神様が、一日目には「光と闇」、二日目には「大空」、三日目には「陸地・植物」、四日目には「太陽と月と星」、五日目には「空や海の動物」、六日目には「陸の動物、最後に人間」をそれぞれお創りになったと、聖書には書かれています。そして七日目に、神様は、休まれたとあります。

キリスト教信仰には幅があります。ある人は、この創世記をそのまま信じます。つまり、一日を文字通り24時間と信じ、神様が文字通り6日間で全てを創造されたと信じるのです。しかしある人々は、ちょっと違っています。一日の「日」は、ヘブル語で「ヨーム」といい、それは単に「時間的区切り」を表す言葉です。だから、必ずしもそれを24時間と理解する必要はなく、一億年だって、十億年だったいいと考えます。前者の人々は、進化論者と激しくぶつかります。アメリカでは公立学校で進化論を教えることに反対し、数多くの裁判も起こされています。しかし後者の場合は、進化論と矛盾しません。彼らは「進化論をあくまで、神様の創造の御業を、科学的に分析したものだ」ととらえるのです。これを「有神論(ゆうしんろん)的進化論」ともいいます。

大切なのは「意味」です。聖書の解釈に幅はありますが、違いを超えて、明らかな「真理」が二つあります。一つは「神様がこの世界をおつくりになった(1:1)」こと。そしてもう一つは、それらは本来「非常に良かった(1:31)」ことです。ヘブル語で創世記1章を読むと非常に興味深いことに気が付きます。それは、とことん「7」にこだわって書かれていること。1章1節は7つの単語で書かれ、1章全体は7区分に分けてまとめられています。「7」は聖書の「完全数」(そこからラッキーセブンという言葉が生まれた)。だから1章の最後には「それは非常に良かった」と記されているのです。一日が24時間か10億年かより、実はこちらの方が大切なことです。

自然に感動したことがありますか?私は大学生の時に、動物の遺伝について勉強をしていました。ですから、周りの友人たちも、生物学(進化論も含め)詳しい人ばかり。彼らは、冗談交わりに、よく私に言いました「今まで何を勉強してきたの?神が造ったって本当に信じているの(笑)?」しかし、ある日のこと、一緒に牛の解剖をしていた時のことです。その友人の一人が、目をキラキラさせて言うのです。「おい川村、やっぱり神はおるかもしれん!」私は今でも、その時の彼の顔を忘れることができまません。つまり、神を信じるか信じないかとは、言いかえれば、この世界(自然・宇宙)、しいては自分自身に、「偶然」以上の「必然」を見出すかどうかなのです。

もう少し簡単に説明しましょう。腕時計を見て、偶然に出来たと考える人がいるでしょうか?家を見て、自然にできたと考える人がいるでしょうか?いいえ、それを作った人(人格)がいると考えるのは当たり前のことです。また作られたものには、創った人の目的(願い)が込められているものです。私たち人間は、時計や家以上に素晴らしい存在です。それを創った方がいると考えるのはある意味当たり前であり、創られたからには、そこに目的があると考えるのは、当然のことではありませんか。ある人は、この創造を導いたお方を「サムシング・グレート」とか「インテリジェント・デザイナー」と呼びます。しかし聖書によれば、この方こそ「神(創造主)」なのです。

神様の創造の御業は本当に素晴らしい。罪によって、幾分くすんでいますが、その輝きは私たちの心に感動を与えます(このテーマはまた後日)。でも気をつけて。被造物を拝むのではなくて、その被造物を創られた方を礼拝するのです。私たちは、この創造主に愛されているのです!


初めに、神が天と地を創造した。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。
創世記1章1,31節