2011年9月10日土曜日

第4回「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」 詩篇139編、イザヤ43章

前回は「聖書~神様からのラブレター~」と題して学びました。聖書にはカタカナが多く、難しいというイメージがありますが、ラブレターだと思って読むと少しワクワクします。ラブレターなのだから、読み方にも気を付けなければいけません。分析的になり過ぎず、相手が自分に何を伝えようとしているのか、そのメッセージに集中して読むことと、聖書の真の著者は神様なのだから「この聖書を通して私にも語りかけて下さい」と、祈り求めながら読むことなどが大切だと教えられました。そうして読む時、聖書の言葉が、生き生きと私たちの心にも語りかけてくるのです。そして今回はいよいよ、聖書に神様はどのように紹介されているのか、というテーマです。カミガミと呼ばれるものは数多くありますが、聖書の神様はいったいどんなお方なのでしょう?

聖書にはまず「神は霊である」と紹介されています(ヨハネ4:24)。分かりやすくいうと、形がないということです。形がない方を、木や石の像にしてはいけないと聖書にはあります。また霊であることは、場所や状況によらず、どこにでも(いつでも)存在されるということです(詩篇139:7)。私はこのことを海外で強く感じました。日本でも信仰をもっていましたが、遠く離れた海外でも同様に、祈りがきかれる体験を通し、この単純な真理に目が開かれました。また言葉も分からず、八方ふさがりで、もがき苦しんだ時もありましたが、神様はいつも近くにいて、勇気づけて下さいました。まさしく聖書にある通りです。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)」

また神様は、全知です。むかし森永製菓のCMには「だあれもいないとおもぉっていても、どこかでどこかでエンゼルは~♪」という曲が流れていました。きっと創業者の森永太一郎がクリスチャンであったことも影響しているでしょう。世の中では「人にバレなければいい」といった考え方もあります。でも、人にはバレなくても、神様は全てをご存知(全知)なのです。しかも私たちの心の中まで…。聖書にはこうあります。「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます(詩篇139:4)」。あなたがいま考えていること。心でひそかに願っていること。一人で行っていること。それらをスクリーンに映し出したらどうですか?恥ずかしくないですか?本当に大切なのは、人ではなく神様に見られているということです。

更に神様は全能です。聖書にはたくさんの奇跡が登場します。モーセがイスラエルの民をひきいて紅海を渡ったこと、エリヤが天から火を呼び下したこと。でもキリストが「神にはどんなことでもできます(マタ19:26)」と言われる場合、それは「神様には、人を、罪や、無気力や、目的のない人生から、救うことができる」という意味です。つまり一番の奇跡は、状況を変えることではなく、心(生き方)が変えられることなのです。しかも神様は無理やり人の心を変える(あやつる)ことはなさいません。ジム・キャリー主演の「ブルース・オールマイティ」というコメディ映画で、そのことが面白おかしく描かれています。その映画の中で、ある男が神様から「全能の力」を授かります。でも彼には、愛する女性の心を無理やり自分に向けさせることだけはできないのです。

最後に「神が霊である」とは「人格」をもっておられるということです。人格とは「自分で自分を意識し、ものを考え、自分で決定し、行動する、生きた存在だ」という意味です。これは「愛する」ことにおいて必要不可欠な要素です。人格のないロボットと人間の間に「愛」は成立するでしょうか?人によってプログラムされた愛の告白にどれほど価値があるのでしょうか?いいえ、きっと嬉しくないでしょう。愛さないという選択肢がありながらも、愛するからこそ、愛には価値があるのです。神様は私たちのことを愛しておられます。聖書にこうあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」。神様に、私たちを愛さなければいけない義務があるでしょうか?私たち自身の内に、それほどの価値が備わっているのでしょうか?でも神様は、愛すると決意し、価値を認め、行動される(十字架を選ばれる)のです。

そして神様は、私たちにも人格を与え自発的な心で振りむいて欲しいと願われています。また自発的な心で新しい人生に漕ぎ出してほしいと願われています。神様は全能な方ですが、本当の意味で愛し愛される関係を築くためには、その力を控えられ、相手の決断にゆだねられるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ43章4節(抜粋)