2011年9月10日土曜日

第5回 「聖書の神様~聖く、あわれみ深い神~」 詩篇103編、イザヤ6章

前回は「聖書の神様~はたしてどんなお方か~」と題して学びました。その中で、聖書に記されている神様が、石や木に刻まれた神々ではなく「霊なるお方である(ヨハネ4:24)」と学びました。単に目に見えないという意味ではなくて、私たちの心の中までも知っておられ、全てを知った上で、私たちのことを愛しておられる、人格的な神様であることを表していました。今回の箇所も、それと関連していますが、今回は特に「聖(きよ)く」て「あわれみ深い」という、二つの観点から、神様のご性質(専門的な言葉で「属性(ぞくせい)」)に光を当てたいと思います。

まず神様は「聖(きよ)い」お方です(ヨハネ4:24)。「聖い」をヘブル語で「カドーシュ」と言います。それは、もともと「切り離す」とか「分離する」という意味ですが、この言葉が神様のご性質を表す言葉として用いられるようになりました。なぜか?それは聖書の神様が、人間とは根本的に「分離し」「切り離されている」「おそれ多いお方」であるからです。日本の神々は、とても人間的です。時には間違いも犯し、人間が神になったりもします。でも聖書の神様はそうではありません。聖書にこうあります。「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか(出エジ15:11)」。だから、イザヤは、この完全で、聖い主を見た時「あぁ私はもうだめだ」と言ったのです(6:5)。「神々(こうごう)しい」とでも言いましょうか。本来、この神様の光に照らされる時、すべての罪も闇も、私たちも、滅びて失せてしまうのです。

この聖い神様は「罪」を忌み嫌われます。ある人は分かりやすく「神様は罪に対してアレルギーを持っておられる」とも表現しました。罪に関しては、また詳しく学びますが、聖書にこうあります。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者(箴言6:16-19)」。こうした罪を嫌う神様の性質のことを「義(ぎ)」とも呼びます。前回学んだように、神様は全知全能なのですが、出来ないことが二つあります。一つは「罪」を犯すこと。それは、ご自身の性質に反すること(自分を偽ること)だからです。神様は、ご自分でさえも「偽ることのない神(テトス1:2)」なのです。つまり、神様にとって一番難しいことは、罪をうやむやにしたり、見なかったりすることです。

しかし、聖書の神様は「あわれみ深い神」でもあります。聖書にはこうあります。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる(詩篇103:8-13)」。もしかしたら、このことに関しては、先ほど紹介した神様の性質とは矛盾するように聞こえるかもしれません。実際この両者の間には、激しい葛藤が存在します。一方は、聖く、罪をとことん嫌われる神様。でも、もう一方では、罪ある私たちを、とことん愛し、赦したいと願われる神様…。

神様に出来ないもう一つのこと、それは「私たち人間を愛さないこと」です。聖い神様から見れば、私たちなんて、欠けだらけで、愚かで、ちりに等しい存在です。でも神様は、そんな私たちを、愛さずにはおられません!なぜか?それは神が愛だからです(1ヨハ4:16)!!愛とは、何でもホイホイ赦すような、いい加減なものではありません。聖い神様にとって、罪を赦すことは、最も苦しく、最も難しいことです。でも神様は、その深い葛藤を、文字通り血を流す苦しみをもって克服してくださいました。ここに神の愛があるのです。神の愛と神の義は、表裏一体なのです。

神様の「聖さ」と「あわれみ」、「義」と「愛」。この両者の深い葛藤に、ご自分を犠牲にして、橋を渡してくださった方がいます。それがイエス・キリストです。このことは、また改めて…。

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3章16節