2012年3月8日木曜日

第18回 「イエスの生涯―十字架③」 Ⅰコリント1章18-31節

前回私たちは、イエス様が十字架で死なれた際、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた箇所を読みました(マタイ27:51)。それは文字通り新しい時代の「幕開け」でした。もはや神様と私たちの間に、仕切りの幕はありません。十字架という「道」が敷かれ、この道を通して、私たちは父なる神との「親しい交わり」という「永遠のいのち」をいただいているのです。しかし前回、一つだけ語らなかったことがあります。それは「群衆がなぜイエスを十字架につけたのか」ということです。祭司長や律法学者たちは「激しいねたみ」からでした。でも群衆はつい一週間前「ホサナ」と叫んでいたのに、急に「十字架につけろ!」と叫びだしたのです。なぜでしょうか?

彼らは弱々しいイエスにつまずいたのです。群衆が「ホサナ、ホサナ」と熱狂的にイエスをエルサレムに迎えたのは、自分たちの王となって欲しいとの期待を寄せてのことでした。彼らはこのように叫びました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に(マタイ21:9)」。そうなのです。彼らは、イエス様がダビデのような王様となり、イスラエルの黄金期を取り戻してくれることを期待し、「神の国」を、そんな自分たちの願望に重ねて理解したのです。しかしピラトの前に取り調べを受けるイエスは、小羊のようにおとなしく、不利な証言に言い返すこともなく、弱々しく見えたのです(イザヤ53章)。その姿に失望した群衆は、祭司長や律法学者たちよりも声を大にして「十字架につけろ!」と叫び出しました。実はこれも、旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書にはこうあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(53:1-5抜粋)」。

多くの人は、今でもこのイエスの十字架につまずきます。前回も記しましたが、ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。またある人は「どうして2000年前のイエスの十字架が私たちを救うんだ」とつまずきます。実際、私自身もそのように考え、誰にも言えず、長い間もがき苦しんできました。もちろん答えは聖書にあります。聖書の中から丁寧に御言葉を引用し、そのような疑問に答えていくことは大切です。そういった地道な学びが欠けているために、救いの確信を得られない人も多くいるのではないでしょうか。しかし誤解をしてはいけません。私たちは決して「知的に納得したから救われる」のでもありません。信仰とは目に見えないことを確信し(ヘブル11:1)、幼子のように受け入れ(マルコ10:15)、実際に行動に移すことなのです。分かりやすく言えば、ペテロは納得したらから湖の上に一歩を踏み出したのでしょうか?いいえ。彼は信じたからこそ一歩を踏み出したのです(マタイ14:22‐33)。信仰もまた、水の上に一歩を踏み出すようなものです。

なぜ神様は、私たちを救うのに「十字架」という方法をとられたのでしょうか?それは「神の御前で誰も誇らせないためです(1:29)」。多くの人は、宗教に自己実現を求めます。「これを信じたら、立派になれます。人からも認められます。豊かになります。成功します。」など、とにかく上昇志向の道具として「神」を利用しようとするのです。でもそれは、結局自分を「神」として、自分を誇ろうとしているだけなのです。ユダヤ人も同じです。彼らは自分たちが望む「王国」の実現のために、イエスを利用しようとしたのです。ギリシヤ人にとっての自己実現とは、知恵を得ることです。それが一番、人から認められることだからです。でも「十字架の福音を信じた」といって、どれだけ人から認められるのでしょうか?少なくとも十字架とは、外国ローマの処刑の道具で、しかも奴隷など特に身分の低い人を、見せしめとして処刑するための道具だったのです。でも神様は、そのような十字架で死なれた「救い主」を「信じる」ことによってのみ救われる、と定められたのです。それは私たちが、ただ十字架のキリストを誇る者となるためでした(1:31)。

あなたの誇りは何でしょうか?もしあなたが、本当に自分に死に、幼子のように素直になり、キリストの十字架の福音を受け入れ、神を神とし、主のみを誇りとするなら、その信仰があなたに力を与えるのです。得ようと思うものはそれを失い、喜んで放棄する者は豊かに与えられます。

十字架のことばは、
滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、
神の力です。
(Ⅰコリント 1章18節)


2012年3月1日木曜日

第17回 「イエスの生涯―十字架②」 マタイ27章

前回は旧約聖書より、イエス様の十字架の背景を学びました。昔の人々は、牛や羊に、自らの手を置くことによって(また年に一度は大祭司が代表して手を置くことによって)罪を動物に負わせ、いけにえとしてほふり、それによって罪の赦しを得ていました。しかしイエス様は、ご自分のからだをもって、ただ一度、完全な、いけにえ(傷のない小羊)となってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです(ルカ23:34)。私たちはただ信仰によって、2000年の時を超えて、十字架のイエス様と霊的に一つされ、罪(古い自分)に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。今日はその理解を、新約聖書を通して、深めたいと思います。

そもそもなぜイエス様は十字架に架かられた(つけられた)のでしょうか?直接的な原因は、パリサイ人や律法学者などの「激しいねたみ」でした(18)。イエス様は、形式(律法)だけの宗教の虚しさを厳しく指摘され、神様と隣人に対する愛を説かれました。それが形だけの宗教で利益を得、自分の立場を守ろうとする、宗教的指導者層の逆鱗に触れたのです。イエス様には何の罪もなかったことは、取り調べたピラトも、彼の妻も告白しています。ピラトは言いました「あの人がどんな悪いことをしたというのか(23)」、また彼の妻も「あの正しい人にはかかわり合わないでください(19)」と言っています。群衆も、数日前までは熱狂的に「ホサナ!」とイエス様を迎え入れていたのに(21:9)、祭司長たちに説きつけられ(20)、まるで何かに取りつかれたかのように激しく「十字架につけろ(22)」と叫びます。これはもちろん彼ら自身の言葉なのですが、彼らの中にある罪がそう叫ばせているとも言えるでしょう。イエス様は、すべての人の罪を赦し、神の子どもとし、神様との交わり(平和:シャローム)を回復するために、十字架にかからなければならなかったのです。これこそ、イエス様が十字架にかかられた、真の目的なのです(ロマ3:23)。

イエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。ある人は「イエスが神なら、なぜ『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(46)』と叫ぶんだ」と言います。しかし思い違いをしてはいけません。三位一体の神であり、完全な一致を保っておられる父と子が、罪によって分断され、引きはがされたからこそ、十字架には肉体的な苦しみ以上の苦悩があったのです。第9回でこう学びました。「人間が神のようになり、自分勝手に生き始めた結果、『神のかたち(平和)』は大きく歪められ、苦しみと悲しみが全人類に広がりました。そして人間は本当に死んでしまいました。聖書で言うところの死とは、肉体の死という意味だけではなく『神様との断絶』を意味します」。本来ならば、私たちが、あの十字架の上で『神との断絶』という、肉体的かつ霊的な苦しみを味わわなければならなかったのです。しかし、一方的な恵みによって、神のひとり子であるイエス様が、すべての罪と咎とを負い、十字架にかかってくださったことにより、私たちは、価なしに義と認めら、神との平和を回復したのです(ロマ3:24)。

キリストの死の瞬間、神殿の幕が真っ二つに裂けました。文字通り、新しい時代の「幕開け」です。前回もお話ししましたが、旧約時代には年に一度、大祭司が神殿の幕の内側にある「至聖所」に入り、民全体の罪のために祈りました。でもイエス様は、ご自分が「神の大祭司」として、またご自身が「完全ないけにえ」となることによって、平和(神との和解)を成しとげて下さったのです。これが新約時代の幕開けです。この時代に生きる私たちは、大祭司によらず、いけにえによらず、「ただ信仰によって」、大胆に神に近づき、罪の赦しと、永遠のいのちをいただくことができるのです。もはや神様との間に、隔ての壁も、敵意も、仕切りの幕もありません。目の前には十字架という道が敷かれており、その先には、主とともに歩む、新しい人生が待っているのです。ヘブル人への手紙にはこうあります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです(10:19-20)」。

躊躇していることはありませんか?イエス様がいのちを投げ出して、隔ての壁を、神殿の幕を取り除いてくださったのです。目の前には、天の父なる神が、両手を広げ、待っていてくだいます。そのお方は誰よりも私たちのことを知っていて、愛にあふれ、ともに人生を歩みたいと願っておられます。何も心配することはない。目の前の十字架の道を、大胆に踏み出してみませんか?

こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、
大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
(ヘブル10章19節)

2012年2月23日木曜日

第16回 「イエスの生涯―十字架①」 レビ4章、出エジプト12章

前回はイエス様の「たとえ話」について学びました。その内の一つは「放蕩息子(失われた二人の息子と、父の愛の物語)」でした。家を飛び出し、放蕩し、故郷に帰ってきた弟息子を、父は自ら走り寄り、抱きしめ、最高のもてなしをしたのです。実に感動的なシーンでした。しかし、決して罪がチャラ(ご破算)になったわけではありません。物語には登場していませんが、その背後には「良い兄」の存在があったことを話しました。その良い兄は、遠い国の弟を探しに行き、一緒に住み、罪と負債をすべて肩代わりし、弟をまっさら(一点の汚れもない)な存在にして父のみもとに返して下さったのです。たとえ自分は父から見捨てられた者となっても…。その良い兄こそ、イエス様でした。今回からは、このイエス様の贖罪(しょくざい)について学びます。

イエス様が私たちの罪を贖(あがな)ってくださった、とはどういう意味なのでしょうか?直接の意味は、イエス様が身代わりとなってくださったことによって、私たちの罪は赦された、という意味です。聖書にはこうあります。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(Ⅰペテロ 2:24)」。また「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。しかし、この話しをしましたら、ある方(求道者)からこんな質問を受けました。「どうして罪の赦しのためには、身代りとか、いのちの犠牲が必要なのですか」。確かにそう思うのは当然です。そのことを理解するためには、少しばかり旧約聖書の知識がいるのではないでしょうか。

「旧約」の「約」は「契約」の「約」です。神様が人間と結ばれた、もともとの契約を「旧約」といい、イエス様の十字架以降、更新された契約を「新約」というのです。古い契約においては、十戒をはじめとする律法を守ることによって祝福されるという約束でした。その律法を破ることを「罪」というのですが、その罪は「いけにえを捧げることによって赦される」(ただし故意の殺人などの場合には自分の命をもって償わなくてはならない)と教えられています(出29-30章、レビ記1-7章、民28-29章)。そのため旧約時代には、毎日、安息日ごと、年に一度など、事あるごとにおびただしい数のいけにえが捧げられていました。それによって人々は、罪の赦しが決して軽々しいものではなく、犠牲の伴うものなのだということと、神の基準の高さを学んでいったのです。またその際、興味深いことが行われました。罪の赦しを求める人がいけにえを捧げる際、また祭司が民を代表して罪の赦しを祈る際、そのいけにえの頭の上に手を置き、自分たちの罪を負わせました。それによって、本来、自分たちが受けるべき裁きの、身代わりとするためでした。

でもイエス様は、私たちの罪のために、自ら進んで、いけにえの小羊となってくださいました。イザヤ書にはこうあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた(53:6)」。興味深いことに、イエス様が十字架にかかられたのは、過越の祭りの前日でした(ヨハネ19:14)。この日は特別な日で、イスラエルがエジプトを脱出する際の出来事に関連しています。パロは心をかたくなにし、なかなかイスラエルを去らせませんでした。そこで神様は、そんなパロの心を変えるため、エジプトに十の災いを下されたのです(7-12章)。そして最後の災いは、エジプト中の初子を家畜に至るまで打つというものでした。しかし神様の約束を信じ、門柱とかもいに小羊の血を塗った家は助かったのです。イエス様が十字架にかかられたのも「この日」でした!これは神様のご計画によります。このことが分かった時、鳥肌が立つくらいに感動しました。今日も、信仰によって、心にイエス様の十字架の血を塗られた者は、罪に定められることは決してないのです(ロマ8:1)。

このイエス様の十字架から、全く新しい時代が始まりました。イエス様ご自身が、ただ一度、完全な、いけにえとなってくださり、私たちの罪を赦して下さったのです。昔の人は、手を置くことによって罪を動物に負わせましたが、私たちは信仰によって、時代を超えて、この十字架のイエス様と一つされるのです。そして古い自分に死に、新しいいのちをいただいて、主とともに新しい人生を始めるのです。ここに本当の希望があります。十字架については、来週も学びます。

その翌日、(バプテスマの)ヨハネは
自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
ヨハネ1章29節

2012年2月18日土曜日

第15回 「イエスの生涯―たとえ話」 ルカ15章

前回はイエス様の奇跡について学びました。その際、聖書には読み方があることを教えられました。例えば、五千人の給食の奇跡にしても、水上歩行の奇跡にしても、それが「本当か嘘か」と読むのではなく、そこに書かれている意味をしっかり読み取ることが大切であると学びました。その時、聖書の奇跡は単なる2000年前の出来事ではなく、私たちの心に迫ってくる霊的な現実(信仰の教訓)となるのです。今日は、奇跡と並んでイエス様の宣教に特徴的なことです。それは、たとえ話についてです。特に有名な「放蕩息子のたとえ」からともに教えられましょう。

事の発端は弟のひと言です。「お父さん私に財産の分け前をください」。財産とは普通、父が亡くなった後に分け与えられるべきものです。しかし弟はまだ父が生きているのに、分与を望んだのです。つまりこういうことです。「お父さん、あなたに興味はありませんが、あなたのお金に興味があります。財産を分けてください。あとはわたしの好きにしますから」。普通の父だったら怒るのではないでしょうか?勘当されても仕方ありません。でも父は(内面に深い葛藤があったと思いますが)それをすんなり渡してしまうのです。そして弟は遠くへ旅立ち、そこで財産を湯水のように使ってしまうのです。どん底まで落ち、彼はハッと我に返ります。そして父のもとへ帰る決心をします。しかし道半にして、お父さんが弟を見つけ走り寄ります。感動的なシーンです。そして父は最上級のもてなしをし、息子の手に指輪をはめ宴会を開きます。雇い人なんかではない、息子としての立場が一方的なあわれみで回復されたことを意味しています。このように神様は、どんなに神様から遠く離れた人生を送ってきた人も、救い、子としてくださるのです。

ここで兄が登場します。兄は怒って家に入ろうともしませんでした。そしてこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」。兄にはどうしてもわかりませんでした。好き勝手にして、帰ってきた弟が、当然のように迎え入れられることが。「だったら真面目にお父さんに仕えてきた自分がバカみたいじゃないか」とも言わんばかりです。つまりこの兄も、べつに、お父さんを愛し仕えてきたわけではないのです。言ってみれば全ては「自分のため」でした。なのに好き放題やってきた弟が同じように愛され祝福されているのが我慢ならなかったのです。父親から見れば、弟だけでなく、この兄も失われた息子でした。心が失われていた。一緒にいたけど、心は遠く離れていたのです。彼もまた悔い改めて、祝宴に加わり、お父さんの前に膝まずき、悔い改めるべきだったのです。

そもそもこのたとえ話は兄タイプの人に語られたものでした。15章は、罪人とイエス様が食事をすることに、つぶやくパリサイ人や律法学者たちの姿で始まっています。罪人とは弟タイプのこと、そしてパリサイ人や律法学者は「正しすぎる」兄タイプのことです。この放蕩息子のたとえ話には一人の人物が隠されています。1から13節のたとえ話しには共通項があります。九十九匹を残して一匹を探す羊飼いの姿。銀貨十枚のうち亡くした一枚を必死に探す女の姿。でも放蕩息子のお父さんは、弟の帰郷を喜び走り寄りましたが、基本的に待っていました。この話には「必死に探して連れ戻す人物(本来、兄が取るべきだった行動)」が意図的に隠されているのです。じつは、それこそイエス様なのです。イエス様は、放蕩息子のように、父の愛が分からず、父の愛からさまよい出て、自分勝手に生きていたわたしたちを、捜して救うためにこの世にお生まれになりました。そして十字架にかかり、その血で私たちの罪を洗い、父のもとに帰る準備をすべて整えて下さったのです。イエス様こそ私たちにとって良い兄なのです。イエス様はあえてそれを隠すことによって、かえって際(きわ)立たせ、人々が後に思い出して気づくようにされたのです。

イエス様のたとえ話は、物語としてはすんなり心に入ってくるでしょう。しかしその背後には、深い霊的な意味が隠されています。イエス様の十字架についてはまた次回お話しします。あなたは弟タイプでしょうか兄タイプでしょうか?もし神様に逆らって歩んできたのなら今すぐ悔い改めて父のもとに帰りましょう。または兄タイプなら正しすぎるのも問題です。あなたは人を裁いていませんか、赦していない人がいませんか?あなたもまた神様に立ち返る必要があるのです。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8章29節

2012年2月9日木曜日

第14回 「イエスの生涯―奇跡」 マタイ14章13-33節

前回からイエス・キリストの生涯について学んでいます。人としてお生まれになったイエス様が、地上で何をされたのか、その軌跡をたどっているのです。前回は神の国について学びました。イエス様は、多くのことを教えられましたが、そのメインテーマは「神の国」でした。神の国とは、人間の罪ゆえに壊れてしまった神の平和(シャローム)」のこと。具体的には、①神様との平和、②自分の良心との平和、③隣人との平和、④被造物との平和、こうした四つの関係が調和の内に保たれていること、それこそエデンの園に象徴される神の国です。しかしその平和は、人間の罪(自己中心)のゆえに壊されてしまいました。イエス様はその壊れた世界を、回復し、再創造するために来て下さったのです。そして神様は、その回復の御業を、十字架によって罪赦された人を通して行われます。人の罪によって失われた神の国は、罪の赦しによって再び始まるのです。

イエス様は、この地上でたくさんの奇跡を行われました。病人がいやされたり、水がぶどう酒になったり、悪霊が追い出されたり。現代人にとって、このような奇跡は非科学的に思えて、つまずきの原因になってしまうのかもしれません。現代人は、科学信仰(科学こそ万能で、科学で証明できないことは全て迷信だと思う傾向)に陥っているか、その正反対で非常にオカルト的な世界観(スピリチュアル、ニューエイジ、占いなど)にはまっているかです。しかしクリスチャンはそのどちらでもありません。天と地を創造された神様は(創世記1:1)、自然の法則を超えることも出来ると信じています。しかしオカルトは拒否します。それは聖書に禁じられていることです(レビ19:31)。イエス様の行われた奇跡には、呪文や怪しい儀式など、魔術的な要素はいっさいありませんでした。ただ、みことばの権威に基づいて単純に行われ、天の父に栄光が帰されました。

イエス様の代表的な奇跡は「五千人の給食」です。聖書には色々な奇跡がありますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書に共通して記されているのは、実はこの「五千人の給食」だけです。それだけ重要な奇跡だとも言えます。何が重要なのか?それは奇跡に込められているメッセージです。具体的にあげてみましょう。①「あなた方で、あの人たちに(16)」と言われていますが、これはイエス様の御業に積極的に参与することの大切さを教える言葉です。②「五つのパンと二匹の魚(17)」のようなどんな小さな賜物でも、イエス様のところに持っていく時、大きく用いられます。③余ったものを数えたら12のかごいっぱいになった(20)。12は弟子たちの数。つまり与えることは失うことではなく、自分自身も豊かに祝福されることを教えている、などなど。数年後に弟子たちは、イエス様を天に送り、自分たちが神の国の福音を述べ伝える存在になっていきます(マタイ28:18-20)。だからこそ、この奇跡からしっかり学ぶ必要があったのです。

続いて記されているのは「水上歩行」の奇跡です。ある人々は「浅瀬(あさせ)だったのだ」とか「弟子たちが幽霊だと言った通り、幻覚だったのだ」とか色々なことを言います。でもこの奇跡でも大切なのは、そこに含まれているメッセージです。①風や波は(24)、人生の試練(嵐)のことを意味しています。②しかしイエス様は、水の上を歩いて来られたように、そういった問題に支配されることのないお方です(25)。③私たちがすべきことは、このお方を信頼し、問題を見て心配するのではなく、しっかりイエス様だけを見つめて着いて行くことです。目をそらしてしまう時、ペテロのように問題に飲み込まれそうになってしまうのです(30)。④何よりも、この奇跡は、イエス様が神の子であることを現しています。この出来事の直後、弟子たちは言いました。「確かに、あなたは神の子です(33)」。このように奇跡には、私たちへの信仰の教訓が含まれています。

聖書には読み方があります。それを無視して「本当か嘘か」と批判的に読んでも、まったく恵まれません。かといって、すべてを字義どおりにとらえ実行することも、本当の熱心とは違います。大切なのは、そこに書かれている意味をしっかり読み取り、神様のみこころに従うことです。◆その意味が分かるとき、神様の臨在が私たちの心に迫ってきます。その時、聖書の奇跡はもう単なる2000年前の出来事ではありません。聖書を読む時には次のように祈って読みましょう。「イエス様、今日も聖書を通して私に語りかけて下さい。あなたのことをもっと知りたいです」。

「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、
ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
(マタイ11章2-6節)

2012年1月31日火曜日

第13回 「イエスの生涯―神の国の福音」 マルコ1章1-27節

少し間が開いてしまったので復習をしましょう。神様がこの世をお創りになった時「それは非常に良かった(創1:31)」。神様はエデンの園を造り、そこに「神のかたちに」人を創造された(1:27,2:8)。神のかたちとは、三位一体の神が、愛と調和の中に生きておられように、私たちも「関係」の中で生きる存在であることを意味していました。具体的には、神様との関係、自分自身との関係、隣人との関係、被造物との関係。この4つの関係に調和が保たれている時、人は「幸せ」を感じ、またその状態が保たれていることを「神の平和(シャローム)」と言いました。

でも人間の罪ゆえに、その平和はこわれてしまいました(創3章)。罪とは言い方を変えれば「自己中心」です。「神様なんかいらない」「私の人生は私の好きなようにする」「神様の言葉に従いたくない」という心のことです。エバも神様の戒めを破り、自分の欲に従いました。アダムもそれに続き、人類に罪が入ってきたのです。彼らの子カインはアベルを殺し(4章)、地に悪がはびこり(6章)、人は創造された時とは程遠い「的外れ」な存在となってしまいました。神様はそんな人間のために、律法(十戒)を与えられました(出12章)。それによって、秩序を与え、失われた平和を取り戻すためです。しかし人間は律法に従えないばかりか、律法を捻じ曲げ(マコ7:13)、本来、神を愛し、隣人を愛するための律法を、自分の義を建てるための道具としてしまったのです。ギリシャ語で「罪」のことをハマルティアと言いますが、彼らの姿勢こそ「的外れ」でした。

そんな時代にイエス様がお生まれになりました。それまで、神様に従う多くの預言者が、神様のメッセージを届けようとしましたが、ひどい扱いを受け、殺されてしまいました。そこで神様は「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう(マタイ21:37)」と遣わされたのです。イエス様は、神のひとり子であり(100%の神)、肉体的には、おとめマリヤより生まれた人の子でした(100%の人)。何のために、お生まれになってくださったのでしょうか?それは、神様の意図(的・まと)を大きく外れ、神様の目から見たら「失われた人」を捜して救うために来られたのです(ルカ19:10)。イエス様は生まれてすぐヘロデの迫害を逃れエジプトで暮らし、ヘロデが死んでからは小さな田舎のナザレで、大工ヨセフの子として家を助け、ヨセフとマリヤの間に生まれた兄弟たちの面倒を見られました(ルカ2:51-52,マコ6:3)。そして30歳の時、ついに公生涯を始められたのです。

第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(マコ1:15)」でした。イエス様の福音の中心は「神の国」です。神の国とは何でしょう?「時が満ち」とはどういうことでしょう?イエス様の時代までに、イスラエルの12部族は度重なる捕囚によってバラバラにされていました。信仰的にも自分たちが神の民であるという自覚(アイデンティティー)を失い、他宗教と混じり合っているか、パリサイ人や律法学者たちのように、やたら細かくて厳格な律法主義と化していました(マタイ23章)。そして国の主権を失いローマ帝国に支配されていました。でもそれこそ「神の時」でした。イエス様はまず12弟子を選び、彼らを元に、血筋によらない、信仰と御霊による「新しい神の民」を創造され始めたのです。それによって失われた平和を取り戻し、神の愛と義(正義)が支配する、新しい共同体を創造するためです。その国の律法は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(マタイ22:37-39)」に集約されました。世界再創造の壮大な計画の始まりです!

イエス様の教えは権威に満ちていました。その教えを聴くだけで、人々は権威に圧倒されました。神の国は、人の熱心や努力によって成し遂げられるものではありません。もともと罪によって、神のかたち(平和)は失われましたし、その罪を植え付けたのはサタンでした。そうなら、神の国が実現するためには、まずサタンの力を打ち砕き、罪を赦し、人間を新しく生まれ変わらせる力が必要なのです。イエス様にはその権威がありました。聖書にはこうあります。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです(マタイ12:28)」。イエス様のまかれた神の国の種が、大きく成長し始めました。

イエス様には権威があります。色々な力に押しつぶされそうになったり、負けそうになったりしてしまうこともありますが、イエス様の権威を思い出して、より頼む者になりたいと思います。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。
(Ⅰコリント4章20節)

2012年1月13日金曜日

第12回 「まことの神、まことの人」 ヨハネ1章1-14節、コロサイ1章9-23節

前回私たちは「メシア預言」について学びました。例えばイザヤ9章14節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。この預言は紀元前8世紀に書かれたものです。イエスキリストは、偶然や人の思いつきによって生まれたのではなく、神様の定めによってお生まれになった、来るべき「救い主(メシア)」であったのです。

イエス・キリストは、まことの神(100%の神)であられました。ヨハネ福音書の冒頭にはこう言われています。「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(1:1)」。またコロサイ人への手紙にはこうあります。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです(1:15-16)」。さらにイエス様ご自身こう証言されています。「わたしを見た者は、父(父なる神)を見たのです(ヨハネ14:9)」。「わたしと父は一つです(10:30)」。

その、まことの神が、まことの人(100%の人)となられました。それが世界ではじめのクリスマスです。イエス様は、肉体としては人間と全く同じようになられました。しかも無力な赤ちゃんとして、貧しい家畜小屋にお生まれになってくださいました(ルカ2:7)。これは本当に不思議なことです。神様の世界、すなわち「永遠」というものが、どのような世界であるのか、私たちには想像もできませんが、きっと時間の制約もなく、肉体的な制約(物質的・空間的な制限や不自由さ)もないことでしょう。そんな世界から、私たちと同じこの世界にお生まれになってくださったのです。本来、水と油、絶対に交わることのない、二つの世界が、イエス・キリストにおいて「完全にひとつ」となりました。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人なのです。

そのことが、イエス・キリストとの名前にも表れています。よくイエスが名前で、キリストが名字であると誤解されていますが、そうではありません。イエスは名前で、キリストは「油注がれた者、すなわちメシヤ(救い主)」という意味です。つまり、イエス・キリストとお呼びするだけで、「このイエスというお方は、私の救い主である」と信仰告白をすることになるのです。しかも、「イエス」という名は当時、非常にありふれた名前のひとつでした。日本で言えば太郎君とでもいいましょうか。しかも、あのバラバ(イエスの代わりに釈放された犯罪人)もイエスという名前であったと言われています。新共同訳聖書ではこう訳されています。「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか』(マタイ27:17)」。この名前を付けられたのは、神様ご自身でした。夢の中で主の使いが現れてこう言うのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタイ1:21)」。なぜ、この名前なのでしょうか?

それは神のひとり子が、もっとも小さい者のひとりとなられたからです。イエス様は当時、もっともありふれた人のようになり、もっとも罪深い者と同じ名前を名乗られました。それは全ての点で私たちと同じようになり、本当の意味で救うためだったのです。聖書にはこうあります。「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル2:14)」。逆に言えば、だからイエス様には人を救うことがおできになるのです。まことの神として罪を赦す権威をもちながら、私たちの弱さに同情してくださる、友としての神様なのです(ヨハネ15:15)。

神が人となられたのであり、人が神となったのではありません。日本の宗教においては、人が神に祭り上げられることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストは根本的に違っています。イエス・キリストは、失われた人を、捜して救うために、人の子となってくださったのです。

キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
ピリピ2章6-7節